第9話 雫の森
八月十五日からの一週間、雫の森(しずくのもり)に入ってはいけないと、大人たちから何べんも聞かされた。
小学四年生で隣の美希ちゃんは、昨日初めて誰かに聞かされたらしい。
「人喰い蜘蛛がいるんだって。本当なの?」
「馬鹿馬鹿しいな。そんなの嘘に決まってるよ」僕は六年生の威厳を見せて笑い飛ばした。「その時期、夏休みの宿題を残して遊び歩いていちゃいけないから、大人はいろんなことを言うんだよ」
「なんだ、そうか。そうだよねぇ」美希ちゃんも笑った。
この時点で、美希ちゃんと僕が、雫の森へ行くことになるのは、決まったようなものだった。
町外れにある雫の森は、森というのも大袈裟なくらいの木立で、雑木林といってもいいようなものだ。
外周りは歩いて一五分くらいあれば一周でき、だいたい真ん中くらいの位置に、反対側へ出られる小道がある。
森の周囲は、野菜畑で、一番近い民家でもかなり離れている。低学年の頃、蝉やクワガタを捕りに入ったことはあるが、あまり成果は上がらなかった。
こんなところに、人間を喰うような蜘蛛なんているはずがない。
八月十五日から一週間だけが繁殖期とかで、母蜘蛛が栄養のため人間を待っているという言い伝えらしいが、普段は何をして何を食べているのか、なぜ人の目につかないのか。そもそも人間を喰うような巨大な蜘蛛が、こんな小さな森で命を繋いでいるなど、あり得ないことだ。
たしか、その時に人間を襲って喰うだけではなく、うまく逃げても、その人間を憶えていて、十年後にはまたやってくると、そんなありえない話も聞いた覚えがある。

八月十六日早朝、僕たち、つまり美希ちゃんと僕は、雫の森へと踏み込んだ。まぁ、度胸試しというところだ。
僕は手ぶらだったが、美希ちゃんは、こっそり家から持ち出したお父さんのデジカメを首から下げ、右手にはお兄さんのものだという金属バットを持っていた。
絶対に人喰い蜘蛛などいないと確信している僕より、もしかしたらいるかもと疑っている美希ちゃんの方が、度胸があるわけだ。
反対側へ抜ける細道をゆっくり歩いてみようじゃないかということになった。
ちょうど半分くらい来たかな、というあたりで、妙なものが目に入った。道の両側は草や小さな木がまばらに生えているばかりなのだが、その向こうの低い雑木が密集している中に、直径にして一メートルくらいの丸い穴があいている。
「あんなのあったかな」と僕。
「知らない。なかったの?」と美希ちゃん。「もしかしてさ。蜘蛛の巣の入口じゃないかしら」
「そうだとすれば、相当大きな蜘蛛だよ」僕は笑った。
「のぞいて、中を見てみようよ」美希ちゃんは、準備運動よろしく、金属バットを振りながら言う。
「馬鹿馬鹿しい。そんな大きな蜘蛛なんて・・・」
僕が言い終わる前に、美希ちゃんは穴に向かって歩き出していた。
「どう?何もいないだろ」
「いないねぇ」美希ちゃんはしゃがんで穴をのぞき込みながら、僕の方を見ずに手招きする。「でも、変だよ。奥の方が明るい」
「どっかへ抜けてるんじゃないか」
「明るい」という美希ちゃんの言葉に元気づいた僕は、穴の入口まで歩いた。
のぞいてみる、中は空洞上ではあるが、地面を除きびっしりと灌木が生い茂っている。先の方で緩くカーブしているようで、その向こうは見通せない。美希ちゃんの言うとおり、その先のあたりから柔らかな光が差し込んでいる。
「先に行って。ついていくから」
美希ちゃんは、もう穴に入ると決めたようだ。
何で僕が先なんだとは思ったが、ワンピースの美希ちゃんとしては、四つん這いで僕の前に行くことに、女の子らしい恥じらいがあったのかも知れない。
空洞の中は、蒸し暑かった。天井に当たる部分から、ポタリ、ポタリと水滴が落ちてくる。なるほど雫の森か。
カーブの曲がり初めまでは十メートル以上あるように思えた。
カーブの手前から、奥から差してくる光で周囲はすっかり明るくなり、水滴も落ちてこない。急に温度が下がったようだ。微かではあるが、爽やかな風さえ感じられた。カーブを曲がれば数メートルもなく、空洞は終わっていた。
穴から這い出して、腰を伸ばし、周囲を見る。・・・ここは何だ?
「はあぁぁぁ・・・」後から穴を出た美希ちゃんも、膝に付いた葉っぱの屑も払わず立ちあがり、声を上げた。
そこは周囲を濃い緑の木々で囲まれた・・・広場だった。くるぶしくらいまでの、柔らかい草が一面を覆っている。
広場の真ん中あたりに、腰掛けられそうな石が五つ六つ集まってある以外、何もない。
「きれいだね、ここ」
「ああ、気持ちいいな。涼しいし」
「あそこの・・・石の所へ行ってみようよ」美希ちゃんはもう歩き出しながら言う。
石にも汚れた所はなく、腰掛けるにはちょうどいい。
腰掛けて周囲を見渡すと、僕たちが通ってきた空洞の出口以外、低い灌木がぐるりと広場を一周していて、その後ろには大きな木々が茂っている。
「あの辺りだな」僕は適当な所を指さす。「あの辺りから。毛むくじゃらな長い脚の人喰い蜘蛛が、ガサガサッと出てくるんだよ」
美希ちゃんは声を上げて笑った。
「もう、ちっとも怖くないよぉ。こんな明るくてきれいなところに、そんな化け物がいるはずないよぉ」
美希ちゃんはデジカメと金属バットを、大急ぎで石の上に置いて駆け出した。
しかし、どうも変だ。外から見た雫の森の大きさから、こんな広場があるなんて不自然だ。それに、気温も湿度も、森の中とは大違い。なんて爽やかなんだ。わずかな距離や位置の違いでこんなに変わるんだろうか?
でも、たしかに広場は目の前にある。両手を上げて吹き渡るそよ風に戯れているのは、美希ちゃんだ。
美希ちゃんは、風に吹かれ飛ぶ花びらのように、広場のあちらこちらをスキップするようにして駆け回った。
僕は石に腰掛けてそんな美希ちゃんを目で追っていた。
可愛いな、美希ちゃんは・・・幸福を感じる夢のような時間は、たちまちに過ぎていった。
次の日、美希ちゃんは来なかった。その次の日も、その翌日も。
隣と言っても郊外の町であり、美希ちゃんの家はかなり離れている。よほど僕の方から行ってみようと思ったが、年下の女の子である。僕から遊びに行くのは気が引けた。
しかし、五日経っても美希ちゃんは現れない。病気なのかも知れない。
六日目の朝、やはり美希ちゃんは姿を見せず、夏休みももうすぐ終わろうとしている。
あそこかも・・・理由はなかったが、もしかするとあの広場に・・・なぜかそんな気がして、僕は一人で雫の森へ行ってみた。
まだ朝のうちで、真夏のお日様もそれほど厳しくはなかった。
森の中は人気もなく静かで、細い道の中程まで来ると、茂みの中の穴はあの日と変わらなかった。
一度通った穴であり、今度はためらわず入っていくことができた。やはりポタリ、ポタリと落ちてくる雫が、四つん這いで進む僕の首筋や腕を濡らす。
向こう側へ出ると、例の緑の広場が待っていた。
・・・と?
「美希ちゃん?」美希ちゃんだ。
中央の石の少し向こうに、青いワンピースの後ろ姿を見せているのは美希ちゃんに違いない。やっぱり、ここへ来ていたんだ。
僕が駆け寄ろうとする途中で、美希ちゃんがゆっくりとこっちを向いた。やっぱり美希ちゃんだ。
でも、僕の脚は止まってしまった。美希ちゃんの表情は今まで見たこともないくらい暗く、そして透き通るように白いその顔色・・・。
「どうしたんだ。美希ちゃん・・・」
「・・・蜘蛛だよ。人喰い蜘蛛は・・・いたんだよ」
美希ちゃんの両目から涙がこぼれ落ちた。白い・・・涙?
半透明な白い涙は、ゆっくりと美希ちゃんの両頬に広がっていく。
「こんなところへ、来ちゃいけなかったんだよ」美希ちゃんがかすれた声で言うと、その唇の表面が裂け、そこからも白い液のようなものが滴り出た。
もっと何か言おうとしたのか、美希ちゃんが少し口を開くと、口の中も白いものでいっぱいだった。その白いものは、最初は糸を引くように、すぐにだらだらと美希ちゃんの口からしたたり落ちた。
「ど、どうしたんだ」駆け寄って思わず美希ちゃんの肩に手を置く。僕の指は、ワンピース越しにズブズブと美希ちゃんの肩に沈み込んだ。
熟れすぎた柿の実に触れるような異様な感触。
驚いて手を引いて見てみると、僕の指にも白い液のようなものが付いていた。そしてそれは微かに動いていた。
目を凝らすと・・・それは一つ一つは半ミリにも満たない小さな半透明の白い点の集まりで、それぞれに細い脚のようなものが・・・蜘蛛だ。小さな無数の蜘蛛の集団だ。
細い多くの脚をそれぞれにせわしなく蠢かせながら、それらは一つの流れとなって僕の手に広がり、腕を這い上ってくる。
僕は悲鳴を上げて手を強く振ってそれらを振り払おうとした。
同時に目をあげて美希ちゃんを見ると、美希ちゃんは背が半分くらいになっている。両足が地面にめり込んだように短くなり、地面との接点には、一部は盛り上がるようにして、白いものが草の間をわらわらと広がっていく。
両腕は抜け落ちたように足元に転がり、付け根から白いものが溢れ出すにつれ、萎んでいく。そして、皮膚だろう、黄色い薄い膜のようなものが吹く風にゆらゆらとなびいている。
見る見るうちに、お腹も胸も溶けるように消えていき、動く白い液体に変わっていく。青いワンピースは脱ぎ捨てられたようにくずおれ、その上に美希ちゃんの首だけが乗っかっているようになった。
その首からは、目と言わず、鼻と言わず、口と言わず、白いものが溢れ出てくる。
僕は気が遠くなり、その場に横倒しに倒れてしまった。
「み、美希ちゃん・・・」答はない。
そして薄れていく僕の意識と視界の中を、何か環のようになった黒いものが、折からの風に風に吹かれて転がっていった。
美希ちゃんの・・・髪の毛?
意識は遠のき、僕は底知れぬ闇の中に落ちていった。
僕は雫の森の入口のあたりに倒れているところを発見され、病院に運ばれたそうだ。怪我はなく一週間ほど病院にいて退院した。
退院すると警察や何かの専門家、両親や学校の先生の質問攻めが待っていた。
特に警察の質問はしつこかった。それは、美希ちゃんが行方不明になっていたからだ。
僕はありのままを答えた。誰も信じてくれなかった。
警察はすぐ森に行ったが、茂みの穴も広場もなかったという。しばらくおいて僕も警官に連れられて、森に行ったが、やはり穴も広場もなかった。
それが、なぜか不思議ではなく当然のような気がした。

僕は大学を中退して始めた情報関連の起業があたり、お金には不自由しない。両親とも疎遠になり友だちもなく、大都会の高層マンションの最上階に一人で暮らしている。
天井までの大きな湾曲したガラス窓の向こうに東京湾の夜景が見える。海を取り巻く街の灯りが、時に瞬きながら星屑のように海に浮かんでいる。
美希ちゃんは見つからなかった。でも、僕には美希ちゃんがどこにいるか判っているのだ。
美希ちゃん・・・待たせたね。もうすぐだよ。また会えるよ。
僕の肘の内側、前腕の皮膚が酷く薄くなり透き通るようだ。
その皮膚の下、微かな陰影をもって、さざ波のように繰り返し蠢くものが何か、僕は知っている。(完)
小学四年生で隣の美希ちゃんは、昨日初めて誰かに聞かされたらしい。
「人喰い蜘蛛がいるんだって。本当なの?」
「馬鹿馬鹿しいな。そんなの嘘に決まってるよ」僕は六年生の威厳を見せて笑い飛ばした。「その時期、夏休みの宿題を残して遊び歩いていちゃいけないから、大人はいろんなことを言うんだよ」
「なんだ、そうか。そうだよねぇ」美希ちゃんも笑った。
この時点で、美希ちゃんと僕が、雫の森へ行くことになるのは、決まったようなものだった。
町外れにある雫の森は、森というのも大袈裟なくらいの木立で、雑木林といってもいいようなものだ。
外周りは歩いて一五分くらいあれば一周でき、だいたい真ん中くらいの位置に、反対側へ出られる小道がある。
森の周囲は、野菜畑で、一番近い民家でもかなり離れている。低学年の頃、蝉やクワガタを捕りに入ったことはあるが、あまり成果は上がらなかった。
こんなところに、人間を喰うような蜘蛛なんているはずがない。
八月十五日から一週間だけが繁殖期とかで、母蜘蛛が栄養のため人間を待っているという言い伝えらしいが、普段は何をして何を食べているのか、なぜ人の目につかないのか。そもそも人間を喰うような巨大な蜘蛛が、こんな小さな森で命を繋いでいるなど、あり得ないことだ。
たしか、その時に人間を襲って喰うだけではなく、うまく逃げても、その人間を憶えていて、十年後にはまたやってくると、そんなありえない話も聞いた覚えがある。

八月十六日早朝、僕たち、つまり美希ちゃんと僕は、雫の森へと踏み込んだ。まぁ、度胸試しというところだ。
僕は手ぶらだったが、美希ちゃんは、こっそり家から持ち出したお父さんのデジカメを首から下げ、右手にはお兄さんのものだという金属バットを持っていた。
絶対に人喰い蜘蛛などいないと確信している僕より、もしかしたらいるかもと疑っている美希ちゃんの方が、度胸があるわけだ。
反対側へ抜ける細道をゆっくり歩いてみようじゃないかということになった。
ちょうど半分くらい来たかな、というあたりで、妙なものが目に入った。道の両側は草や小さな木がまばらに生えているばかりなのだが、その向こうの低い雑木が密集している中に、直径にして一メートルくらいの丸い穴があいている。
「あんなのあったかな」と僕。
「知らない。なかったの?」と美希ちゃん。「もしかしてさ。蜘蛛の巣の入口じゃないかしら」
「そうだとすれば、相当大きな蜘蛛だよ」僕は笑った。
「のぞいて、中を見てみようよ」美希ちゃんは、準備運動よろしく、金属バットを振りながら言う。
「馬鹿馬鹿しい。そんな大きな蜘蛛なんて・・・」
僕が言い終わる前に、美希ちゃんは穴に向かって歩き出していた。
「どう?何もいないだろ」
「いないねぇ」美希ちゃんはしゃがんで穴をのぞき込みながら、僕の方を見ずに手招きする。「でも、変だよ。奥の方が明るい」
「どっかへ抜けてるんじゃないか」
「明るい」という美希ちゃんの言葉に元気づいた僕は、穴の入口まで歩いた。
のぞいてみる、中は空洞上ではあるが、地面を除きびっしりと灌木が生い茂っている。先の方で緩くカーブしているようで、その向こうは見通せない。美希ちゃんの言うとおり、その先のあたりから柔らかな光が差し込んでいる。
「先に行って。ついていくから」
美希ちゃんは、もう穴に入ると決めたようだ。
何で僕が先なんだとは思ったが、ワンピースの美希ちゃんとしては、四つん這いで僕の前に行くことに、女の子らしい恥じらいがあったのかも知れない。
空洞の中は、蒸し暑かった。天井に当たる部分から、ポタリ、ポタリと水滴が落ちてくる。なるほど雫の森か。
カーブの曲がり初めまでは十メートル以上あるように思えた。
カーブの手前から、奥から差してくる光で周囲はすっかり明るくなり、水滴も落ちてこない。急に温度が下がったようだ。微かではあるが、爽やかな風さえ感じられた。カーブを曲がれば数メートルもなく、空洞は終わっていた。
穴から這い出して、腰を伸ばし、周囲を見る。・・・ここは何だ?
「はあぁぁぁ・・・」後から穴を出た美希ちゃんも、膝に付いた葉っぱの屑も払わず立ちあがり、声を上げた。
そこは周囲を濃い緑の木々で囲まれた・・・広場だった。くるぶしくらいまでの、柔らかい草が一面を覆っている。
広場の真ん中あたりに、腰掛けられそうな石が五つ六つ集まってある以外、何もない。
「きれいだね、ここ」
「ああ、気持ちいいな。涼しいし」
「あそこの・・・石の所へ行ってみようよ」美希ちゃんはもう歩き出しながら言う。
石にも汚れた所はなく、腰掛けるにはちょうどいい。
腰掛けて周囲を見渡すと、僕たちが通ってきた空洞の出口以外、低い灌木がぐるりと広場を一周していて、その後ろには大きな木々が茂っている。
「あの辺りだな」僕は適当な所を指さす。「あの辺りから。毛むくじゃらな長い脚の人喰い蜘蛛が、ガサガサッと出てくるんだよ」
美希ちゃんは声を上げて笑った。
「もう、ちっとも怖くないよぉ。こんな明るくてきれいなところに、そんな化け物がいるはずないよぉ」
美希ちゃんはデジカメと金属バットを、大急ぎで石の上に置いて駆け出した。
しかし、どうも変だ。外から見た雫の森の大きさから、こんな広場があるなんて不自然だ。それに、気温も湿度も、森の中とは大違い。なんて爽やかなんだ。わずかな距離や位置の違いでこんなに変わるんだろうか?

美希ちゃんは、風に吹かれ飛ぶ花びらのように、広場のあちらこちらをスキップするようにして駆け回った。
僕は石に腰掛けてそんな美希ちゃんを目で追っていた。
可愛いな、美希ちゃんは・・・幸福を感じる夢のような時間は、たちまちに過ぎていった。
次の日、美希ちゃんは来なかった。その次の日も、その翌日も。
隣と言っても郊外の町であり、美希ちゃんの家はかなり離れている。よほど僕の方から行ってみようと思ったが、年下の女の子である。僕から遊びに行くのは気が引けた。
しかし、五日経っても美希ちゃんは現れない。病気なのかも知れない。
六日目の朝、やはり美希ちゃんは姿を見せず、夏休みももうすぐ終わろうとしている。
あそこかも・・・理由はなかったが、もしかするとあの広場に・・・なぜかそんな気がして、僕は一人で雫の森へ行ってみた。
まだ朝のうちで、真夏のお日様もそれほど厳しくはなかった。
森の中は人気もなく静かで、細い道の中程まで来ると、茂みの中の穴はあの日と変わらなかった。
一度通った穴であり、今度はためらわず入っていくことができた。やはりポタリ、ポタリと落ちてくる雫が、四つん這いで進む僕の首筋や腕を濡らす。
向こう側へ出ると、例の緑の広場が待っていた。
・・・と?
「美希ちゃん?」美希ちゃんだ。
中央の石の少し向こうに、青いワンピースの後ろ姿を見せているのは美希ちゃんに違いない。やっぱり、ここへ来ていたんだ。
僕が駆け寄ろうとする途中で、美希ちゃんがゆっくりとこっちを向いた。やっぱり美希ちゃんだ。
でも、僕の脚は止まってしまった。美希ちゃんの表情は今まで見たこともないくらい暗く、そして透き通るように白いその顔色・・・。
「どうしたんだ。美希ちゃん・・・」
「・・・蜘蛛だよ。人喰い蜘蛛は・・・いたんだよ」
美希ちゃんの両目から涙がこぼれ落ちた。白い・・・涙?
半透明な白い涙は、ゆっくりと美希ちゃんの両頬に広がっていく。
「こんなところへ、来ちゃいけなかったんだよ」美希ちゃんがかすれた声で言うと、その唇の表面が裂け、そこからも白い液のようなものが滴り出た。
もっと何か言おうとしたのか、美希ちゃんが少し口を開くと、口の中も白いものでいっぱいだった。その白いものは、最初は糸を引くように、すぐにだらだらと美希ちゃんの口からしたたり落ちた。
「ど、どうしたんだ」駆け寄って思わず美希ちゃんの肩に手を置く。僕の指は、ワンピース越しにズブズブと美希ちゃんの肩に沈み込んだ。
熟れすぎた柿の実に触れるような異様な感触。
驚いて手を引いて見てみると、僕の指にも白い液のようなものが付いていた。そしてそれは微かに動いていた。
目を凝らすと・・・それは一つ一つは半ミリにも満たない小さな半透明の白い点の集まりで、それぞれに細い脚のようなものが・・・蜘蛛だ。小さな無数の蜘蛛の集団だ。
細い多くの脚をそれぞれにせわしなく蠢かせながら、それらは一つの流れとなって僕の手に広がり、腕を這い上ってくる。
僕は悲鳴を上げて手を強く振ってそれらを振り払おうとした。
同時に目をあげて美希ちゃんを見ると、美希ちゃんは背が半分くらいになっている。両足が地面にめり込んだように短くなり、地面との接点には、一部は盛り上がるようにして、白いものが草の間をわらわらと広がっていく。
両腕は抜け落ちたように足元に転がり、付け根から白いものが溢れ出すにつれ、萎んでいく。そして、皮膚だろう、黄色い薄い膜のようなものが吹く風にゆらゆらとなびいている。
見る見るうちに、お腹も胸も溶けるように消えていき、動く白い液体に変わっていく。青いワンピースは脱ぎ捨てられたようにくずおれ、その上に美希ちゃんの首だけが乗っかっているようになった。
その首からは、目と言わず、鼻と言わず、口と言わず、白いものが溢れ出てくる。
僕は気が遠くなり、その場に横倒しに倒れてしまった。
「み、美希ちゃん・・・」答はない。
そして薄れていく僕の意識と視界の中を、何か環のようになった黒いものが、折からの風に風に吹かれて転がっていった。
美希ちゃんの・・・髪の毛?
意識は遠のき、僕は底知れぬ闇の中に落ちていった。
僕は雫の森の入口のあたりに倒れているところを発見され、病院に運ばれたそうだ。怪我はなく一週間ほど病院にいて退院した。
退院すると警察や何かの専門家、両親や学校の先生の質問攻めが待っていた。
特に警察の質問はしつこかった。それは、美希ちゃんが行方不明になっていたからだ。
僕はありのままを答えた。誰も信じてくれなかった。
警察はすぐ森に行ったが、茂みの穴も広場もなかったという。しばらくおいて僕も警官に連れられて、森に行ったが、やはり穴も広場もなかった。
それが、なぜか不思議ではなく当然のような気がした。

僕は大学を中退して始めた情報関連の起業があたり、お金には不自由しない。両親とも疎遠になり友だちもなく、大都会の高層マンションの最上階に一人で暮らしている。
天井までの大きな湾曲したガラス窓の向こうに東京湾の夜景が見える。海を取り巻く街の灯りが、時に瞬きながら星屑のように海に浮かんでいる。
美希ちゃんは見つからなかった。でも、僕には美希ちゃんがどこにいるか判っているのだ。
美希ちゃん・・・待たせたね。もうすぐだよ。また会えるよ。
僕の肘の内側、前腕の皮膚が酷く薄くなり透き通るようだ。
その皮膚の下、微かな陰影をもって、さざ波のように繰り返し蠢くものが何か、僕は知っている。(完)