第4話 蝉の恩返し
黄昏の川沿いの道を、明彦はバイト帰りの何とも疲れた足取りで、自宅のアパートへと歩いていた。
突然、足下でガサガサッと音がする。
思わず一歩後ずさりしたが、何のことはない、一匹の蝉が地面の上で暴れているのだ。
よく見れば、蜘蛛の糸のようなものが、その羽に絡んでいる。
明彦は気まぐれに、蝉を摘まむと手の平に乗せてみた。透き通った羽に緑色の葉脈のような筋がきれいな、ミンミンゼミだった。鳴き声を上げないところからすれば雌らしい。
羽に絡んでいるのは、やはり蜘蛛の糸のようだったが、蜘蛛の毒牙に噛まれたわけではないようで、蝉自体は元気だった。
川の反対側は雑木林のようになっていて、たぶんそこから飛んできて、蜘蛛の巣に突っ込んでしまったのだろう。
「馬鹿な蝉」
そうつぶやきながら明彦は、手の平の上の蝉の羽から、蜘蛛の糸を丁寧に取ってやった。
まだ全部取りきれないうちに、羽が自由になった蝉は、元気よく飛び立ち、明彦の頭の上あたりを二、三回、くるくる飛び回ると、木立の中へ消えていった。
・・・その夜、九時を過ぎた頃、明彦の部屋のドアをノックする者があった。こんな時間にろくな用じゃないとは思ったが、ドアスコープもない。
「どなたですか」とドアに耳を押しつけてみる。短く何か言ったようだが、よく聞き取れなかった。
若い女の声のようだった。
若い女・・・にわかに気を取り直し、ドアを開けてみると、やはり短い髪の若い女がひとり、立っていた。
「勧誘なら・・・」と言いかけた時には、女は、明彦を押しのけるようにして、もう狭い玄関スペースに入り込んでいた。
そして、そのまま、ずかずかと二部屋しかない明彦の居室に踏み入った。その時、女が裸足であることに気がついた。
「な、何なの。あんた誰?」
さすがにうろたえて、女を見直す。
歳は明彦ぐらいだろう。黄緑色の派手な色のワンピースは、肩幅の広いずんぐりした体には、なじんでいない感じだった。
そして・・・眼と眼の間がすごく離れている。鼻は目一杯低く、口は極端なおちょぼ口・・・個性的と言えば、これ以上ない個性的な顔立ちだった。
その時、明彦は机の上のノートパソコンが、さっきまで見ていたアダルトサイトの露骨な動画を再生し続けているのに気がついた。慌ててスリープボタンを押したが、女は既にそれを見てしまったらしく、意味ありげに、太く短い首でうなずくのだった。
さらに女は部屋の片隅にうず高く積み上げられた雑誌の山に目を移した。
それは、明彦がバイト先の同僚から、お古をもらった、いわゆるアダルト雑誌と呼ばれるものだ。 表紙には半裸のモデルの写真と、下品で過激なキャッチコピーが、毒々しい色合いで並んでいる。
女はそれをじっと見て、また、得心したようにうなずいた。
「あなたの恋人になってあげる」
「な、何を言って・・・」明彦は言葉が続かない。
「でも、七日の間だけ。だから、その前に、思い出になるように、あなたの一番欲しいものを、今、作ってあげる」
女はそう言うと、奥の小部屋に踏み入れ、振り向いて明彦を見て、「何があっても絶対に中を見てはだめ。約束」と言いつつ、後ろ手に引き戸を閉めた。
これはいったい何の冗談だ・・・いや、後から恐ろしげな男が押しかけて来るのかも・・・ 不安になった明彦は、廊下を覗いてみたが誰もいる気配はなかった。ドアに鍵をかけ、机の前に座ったが、あまりのことに、何も考えられなかった。
小部屋の中は、しばらく静かだったが、そのうち何か薄紙かセロハンを引き裂くような、バリバリという感じの音がし始めた。
うるさいというほどの大きな音でもないので、しばらくは放っておいたが、音がいつまでも続くので、さすがに気になる。
見るなとは言われたが、そもそも自分のアパートであり、勝手に立てこもっているのだから、見て何が悪い・・・明彦は、引き戸を三センチほどそっと開け、覗き込んだ。
明彦の頭の中は、一瞬、真っ白になった。
小部屋の中には女の姿はなかった。
替わって、人間と変わらぬほどの大きさのミンミンゼミが一匹、畳に伏していた。
蝉は器用に後ろの脚を背中の方に回し、羽をむしっていた。その時に立つ音がバリバリという音なのだ。そして、前の方の脚に、むしった羽を廻し、しきりと何かしているように見えた。
明彦は言葉もなかったが、気配を感じたのか、蝉は急に動きを止めると、不気味に眼だけを背後に動かし明彦を見た。
明彦は、あわてて引き戸を閉め、壁際まで後ずさった。
間もなく引き戸が開いた。しかし、出てきたのは明彦の予想した巨大な化け物蝉ではなく、わけの分からない女だった。
女は真っ直ぐ壁際の明彦に近づき、「見てはいけないと言ったのに。馬鹿な人。見られた以上、もう恋人になってあげることはできないわ」
顔が近づき、もう少しで唇が触れるほどだった。
「だ、誰もそんなことを望んでは・・・」
明彦の言葉には頓着せず、女は明彦の手に、自分の手に持っていた何かを押し込むように握らせた。
そして、開け放された窓辺に行くと、「さようなら。でも感謝しているわ」と言いながら、両手を広げ、ゆっくりと大きく上下させた。
驚いたことに、それだけで、女の体はふらふらと宙に浮かんだ。
一度、窓の枠に頭を打ち付けたが、そのまま体が窓の外に出た。
そして、右に行ったり左にふらついたり、不安定ではあったが、夜の闇の中に消えていった。
明彦はただ呆然として、女の消えていった闇を見詰めていた。
やがて我に返り、女から渡された手の中にある物に気がついた。何か、丸めた布のような物だった。
それを恐る恐る広げてみると、緑色の葉脈のような筋がきれいな、透け透けパンティだった。
そして、ふと見ると、女の飛び立った窓際の畳の上には、小便色の液体が撒き散らされているのだった。
(完)
突然、足下でガサガサッと音がする。
思わず一歩後ずさりしたが、何のことはない、一匹の蝉が地面の上で暴れているのだ。
よく見れば、蜘蛛の糸のようなものが、その羽に絡んでいる。
明彦は気まぐれに、蝉を摘まむと手の平に乗せてみた。透き通った羽に緑色の葉脈のような筋がきれいな、ミンミンゼミだった。鳴き声を上げないところからすれば雌らしい。
羽に絡んでいるのは、やはり蜘蛛の糸のようだったが、蜘蛛の毒牙に噛まれたわけではないようで、蝉自体は元気だった。
川の反対側は雑木林のようになっていて、たぶんそこから飛んできて、蜘蛛の巣に突っ込んでしまったのだろう。

そうつぶやきながら明彦は、手の平の上の蝉の羽から、蜘蛛の糸を丁寧に取ってやった。
まだ全部取りきれないうちに、羽が自由になった蝉は、元気よく飛び立ち、明彦の頭の上あたりを二、三回、くるくる飛び回ると、木立の中へ消えていった。
・・・その夜、九時を過ぎた頃、明彦の部屋のドアをノックする者があった。こんな時間にろくな用じゃないとは思ったが、ドアスコープもない。
「どなたですか」とドアに耳を押しつけてみる。短く何か言ったようだが、よく聞き取れなかった。
若い女の声のようだった。
若い女・・・にわかに気を取り直し、ドアを開けてみると、やはり短い髪の若い女がひとり、立っていた。
「勧誘なら・・・」と言いかけた時には、女は、明彦を押しのけるようにして、もう狭い玄関スペースに入り込んでいた。
そして、そのまま、ずかずかと二部屋しかない明彦の居室に踏み入った。その時、女が裸足であることに気がついた。
「な、何なの。あんた誰?」
さすがにうろたえて、女を見直す。
歳は明彦ぐらいだろう。黄緑色の派手な色のワンピースは、肩幅の広いずんぐりした体には、なじんでいない感じだった。
そして・・・眼と眼の間がすごく離れている。鼻は目一杯低く、口は極端なおちょぼ口・・・個性的と言えば、これ以上ない個性的な顔立ちだった。
その時、明彦は机の上のノートパソコンが、さっきまで見ていたアダルトサイトの露骨な動画を再生し続けているのに気がついた。慌ててスリープボタンを押したが、女は既にそれを見てしまったらしく、意味ありげに、太く短い首でうなずくのだった。
さらに女は部屋の片隅にうず高く積み上げられた雑誌の山に目を移した。
それは、明彦がバイト先の同僚から、お古をもらった、いわゆるアダルト雑誌と呼ばれるものだ。 表紙には半裸のモデルの写真と、下品で過激なキャッチコピーが、毒々しい色合いで並んでいる。
女はそれをじっと見て、また、得心したようにうなずいた。
「あなたの恋人になってあげる」
「な、何を言って・・・」明彦は言葉が続かない。
「でも、七日の間だけ。だから、その前に、思い出になるように、あなたの一番欲しいものを、今、作ってあげる」
女はそう言うと、奥の小部屋に踏み入れ、振り向いて明彦を見て、「何があっても絶対に中を見てはだめ。約束」と言いつつ、後ろ手に引き戸を閉めた。
これはいったい何の冗談だ・・・いや、後から恐ろしげな男が押しかけて来るのかも・・・ 不安になった明彦は、廊下を覗いてみたが誰もいる気配はなかった。ドアに鍵をかけ、机の前に座ったが、あまりのことに、何も考えられなかった。
小部屋の中は、しばらく静かだったが、そのうち何か薄紙かセロハンを引き裂くような、バリバリという感じの音がし始めた。
うるさいというほどの大きな音でもないので、しばらくは放っておいたが、音がいつまでも続くので、さすがに気になる。
見るなとは言われたが、そもそも自分のアパートであり、勝手に立てこもっているのだから、見て何が悪い・・・明彦は、引き戸を三センチほどそっと開け、覗き込んだ。
明彦の頭の中は、一瞬、真っ白になった。
小部屋の中には女の姿はなかった。
替わって、人間と変わらぬほどの大きさのミンミンゼミが一匹、畳に伏していた。
蝉は器用に後ろの脚を背中の方に回し、羽をむしっていた。その時に立つ音がバリバリという音なのだ。そして、前の方の脚に、むしった羽を廻し、しきりと何かしているように見えた。
明彦は言葉もなかったが、気配を感じたのか、蝉は急に動きを止めると、不気味に眼だけを背後に動かし明彦を見た。
明彦は、あわてて引き戸を閉め、壁際まで後ずさった。

女は真っ直ぐ壁際の明彦に近づき、「見てはいけないと言ったのに。馬鹿な人。見られた以上、もう恋人になってあげることはできないわ」
顔が近づき、もう少しで唇が触れるほどだった。
「だ、誰もそんなことを望んでは・・・」
明彦の言葉には頓着せず、女は明彦の手に、自分の手に持っていた何かを押し込むように握らせた。
そして、開け放された窓辺に行くと、「さようなら。でも感謝しているわ」と言いながら、両手を広げ、ゆっくりと大きく上下させた。
驚いたことに、それだけで、女の体はふらふらと宙に浮かんだ。
一度、窓の枠に頭を打ち付けたが、そのまま体が窓の外に出た。
そして、右に行ったり左にふらついたり、不安定ではあったが、夜の闇の中に消えていった。
明彦はただ呆然として、女の消えていった闇を見詰めていた。
やがて我に返り、女から渡された手の中にある物に気がついた。何か、丸めた布のような物だった。
それを恐る恐る広げてみると、緑色の葉脈のような筋がきれいな、透け透けパンティだった。
そして、ふと見ると、女の飛び立った窓際の畳の上には、小便色の液体が撒き散らされているのだった。
(完)