第1話 写真
夕方から降り始めた小雨が本降りに変わった夜の十時を過ぎて、吉見が私のマンションにやってきた。
「エレベーターがおかしいよ。金属のこすれるみたいないやな音がする。それになんか不規則で細かい振動もあるな」
「築四十年だからな。動くだけマシさ。まさか、オマエさんの大好きな、霊の仕業でもないだろ」
吉見は苦笑して、ソファに腰を下ろすと、雨に濡れた鞄はそのままに、中からビニール袋を引っ張り出した。
そして、そのビニール袋から数枚の写真らしいものを取り出し、重ねたままテーブルに置いた。
持ってきたのは十枚ほどの、いわゆる心霊写真と呼ばれるものである。

あまり売れない情報誌の編集者兼ライターである吉見が、今度、心霊写真特集を担当すると聞いたのは、先週、行きつけのバーのカウンターだった。
その場で、霊の存在について、私に否定され、散々馬鹿にされた吉見が、証拠を見せると意気込んで持ってきたのがそれである。
どれも写真の専門家が写真技術上のトリックはないと認めたものだと言う。
「とにかく、合成や加工なんかの細工はされてないということさ。そこに写っているものが霊であれ何であれ、その時、そこにあった、いた、というのは事実だよ。まず、こいつだけどね」
それは、ブナだと思われる大きな木をかなり近い距離から撮ったものだった。
「右上の少し下。人間の顔だよ。そんなところに人がいるはずがない。霊だと思うね」
「たしかに人の顔のようには見えるが、ま、典型的なシミュラクラだな」
「シミュ・・・?」吉見がいぶかしそうに私を見る。
「オマエさん、心霊写真の記事を書くのに、シミュラクラも知らんのか。取材熱心はけっこうだが、怪しい自称霊能力者の話ばっかり鵜呑みにしない方がいいと思うぜ」
「・・・・・。で、そのシミュ何とかって、何?」
「点や図形が逆三角形に配置されたものを見ると、人間は、それを顔だと判断してしまうんだよ。そういう脳のプログラムのことさ」
「ふうん・・・これもそうだと・・・」
「そうじゃないか。これだけたくさんの葉っぱがあって無数の陰影が重なり合ってるわけだ。リアルなシミュラクラの三つや四つあっても当然じゃないの。ここんとこもそうだろ、斜めにすれば、ほら、笑った人の顔に見える」
吉見は写真を手に取って、斜めにしたり逆さにしたりして見直していたが、首をかしげたまま次の一枚を取り出した。
女子高校生と思われる制服の七人が並んだ集合写真だった。
「ふうん、オマエさんが言いたいのは、この右から三人目の子の肩に置かれている手だな?」
「そ。グループは八人で、一人が写真を撮る役だから、写ってるのは七人。七人とも、右手も左手も写っている。誰の手?」
「手だな、たしかに。馬鹿馬鹿しい。この子らの後ろにしゃがんだいたずら者の手だよ」
「他には誰もいなかったそうだよ」
「いたかも知れないじゃないか。誰かいた確率と、手だけの霊が小鳥か蝶々のように肩に止まった可能性なら、俺は誰かいた方に賭けるね」
吉見はめげずに、さらに数枚の写真を見せた。
しかし、この人魂(ひとだま)らしいものは空中のホコリにフラッシュの光が反射したもの、これは意外な角度にいる人物が映り込んでいるだけ、こっちは不自然な姿勢で体の一部が消えて見えるだけ、とことごとく否定された吉見は、さすがに意気消沈した顔で写真をしまいかけた。
が、ふと手を止めて、一枚の写真をしげしげと見つめた。
「最後にこれね。これは俺も自信がないけどね」
吉見は、首をかしげ、自信がないという一枚を私に渡した。
私は思わず声を出して笑ってしまった。
小さな机の並んだ、薄暗い教室らしい部屋で、ワンピースの女の子がひとり、深刻そうな表情で、なんと机の上三十センチくらいの宙に浮かんで写っているモノクロの写真だった。
「こいつはだめだろ。ワイヤで吊り上げたか、飛び上がったところを高速シャッターで撮ったんだろ。こんなにはっきり、くっきり、写しちまえば、誰でも一目見てトリックだと判る。これでも、霊能力者とかに言わせると、登校途中に、先生の車に轢かれて死んだ、可哀想な赤い服のリカちゃんの霊ってことにでもなるのかい?」
笑いながら写真を返すと吉見は怪訝な顔をした。
乾いた唇が少し震えて、嫌な色をしていた。
「何で・・・そんなことまで判るんだ?先生の車とか、服の色や女の子の名前まで。そのとおりなんだ。・・・でも俺には、何も見えないんだ。ただの教室の・・・」
私はあわてて写真を取り返して見る。
そこにはもう女の子の姿はなかった。
ただ机だけが並んだ、ひとけのない薄暗い教室が、写っているだけ。
(完)
「エレベーターがおかしいよ。金属のこすれるみたいないやな音がする。それになんか不規則で細かい振動もあるな」
「築四十年だからな。動くだけマシさ。まさか、オマエさんの大好きな、霊の仕業でもないだろ」
吉見は苦笑して、ソファに腰を下ろすと、雨に濡れた鞄はそのままに、中からビニール袋を引っ張り出した。
そして、そのビニール袋から数枚の写真らしいものを取り出し、重ねたままテーブルに置いた。
持ってきたのは十枚ほどの、いわゆる心霊写真と呼ばれるものである。

あまり売れない情報誌の編集者兼ライターである吉見が、今度、心霊写真特集を担当すると聞いたのは、先週、行きつけのバーのカウンターだった。
その場で、霊の存在について、私に否定され、散々馬鹿にされた吉見が、証拠を見せると意気込んで持ってきたのがそれである。
どれも写真の専門家が写真技術上のトリックはないと認めたものだと言う。
「とにかく、合成や加工なんかの細工はされてないということさ。そこに写っているものが霊であれ何であれ、その時、そこにあった、いた、というのは事実だよ。まず、こいつだけどね」
それは、ブナだと思われる大きな木をかなり近い距離から撮ったものだった。
「右上の少し下。人間の顔だよ。そんなところに人がいるはずがない。霊だと思うね」
「たしかに人の顔のようには見えるが、ま、典型的なシミュラクラだな」
「シミュ・・・?」吉見がいぶかしそうに私を見る。
「オマエさん、心霊写真の記事を書くのに、シミュラクラも知らんのか。取材熱心はけっこうだが、怪しい自称霊能力者の話ばっかり鵜呑みにしない方がいいと思うぜ」
「・・・・・。で、そのシミュ何とかって、何?」
「点や図形が逆三角形に配置されたものを見ると、人間は、それを顔だと判断してしまうんだよ。そういう脳のプログラムのことさ」
「ふうん・・・これもそうだと・・・」
「そうじゃないか。これだけたくさんの葉っぱがあって無数の陰影が重なり合ってるわけだ。リアルなシミュラクラの三つや四つあっても当然じゃないの。ここんとこもそうだろ、斜めにすれば、ほら、笑った人の顔に見える」
吉見は写真を手に取って、斜めにしたり逆さにしたりして見直していたが、首をかしげたまま次の一枚を取り出した。
女子高校生と思われる制服の七人が並んだ集合写真だった。
「ふうん、オマエさんが言いたいのは、この右から三人目の子の肩に置かれている手だな?」
「そ。グループは八人で、一人が写真を撮る役だから、写ってるのは七人。七人とも、右手も左手も写っている。誰の手?」
「手だな、たしかに。馬鹿馬鹿しい。この子らの後ろにしゃがんだいたずら者の手だよ」
「他には誰もいなかったそうだよ」
「いたかも知れないじゃないか。誰かいた確率と、手だけの霊が小鳥か蝶々のように肩に止まった可能性なら、俺は誰かいた方に賭けるね」
吉見はめげずに、さらに数枚の写真を見せた。
しかし、この人魂(ひとだま)らしいものは空中のホコリにフラッシュの光が反射したもの、これは意外な角度にいる人物が映り込んでいるだけ、こっちは不自然な姿勢で体の一部が消えて見えるだけ、とことごとく否定された吉見は、さすがに意気消沈した顔で写真をしまいかけた。
が、ふと手を止めて、一枚の写真をしげしげと見つめた。
「最後にこれね。これは俺も自信がないけどね」
吉見は、首をかしげ、自信がないという一枚を私に渡した。
私は思わず声を出して笑ってしまった。
小さな机の並んだ、薄暗い教室らしい部屋で、ワンピースの女の子がひとり、深刻そうな表情で、なんと机の上三十センチくらいの宙に浮かんで写っているモノクロの写真だった。
「こいつはだめだろ。ワイヤで吊り上げたか、飛び上がったところを高速シャッターで撮ったんだろ。こんなにはっきり、くっきり、写しちまえば、誰でも一目見てトリックだと判る。これでも、霊能力者とかに言わせると、登校途中に、先生の車に轢かれて死んだ、可哀想な赤い服のリカちゃんの霊ってことにでもなるのかい?」
笑いながら写真を返すと吉見は怪訝な顔をした。
乾いた唇が少し震えて、嫌な色をしていた。
「何で・・・そんなことまで判るんだ?先生の車とか、服の色や女の子の名前まで。そのとおりなんだ。・・・でも俺には、何も見えないんだ。ただの教室の・・・」
私はあわてて写真を取り返して見る。
そこにはもう女の子の姿はなかった。
ただ机だけが並んだ、ひとけのない薄暗い教室が、写っているだけ。
(完)
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