第8話 我が愛しの猫又
深更十二時を過ぎて、二十年来飼ってきた雌猫のサキが、突然に猫又へと変化(へんげ)した。
体の大きさは変わらない、キジトラの毛色も、琥珀色の目も。しかし、尻尾は付け根から二つに別れ、にゃぁと鳴けば口は耳まで裂けた。
舌は色が真っ赤になり、これも二本に別れ互いに絡み合う。時々十センチほど出したりするが、すぐに引っ込めるので、全体がどのくらいの長さかはわからない。
尻尾は、また一本に戻ったり、急に二本になったりする。寝ているときはいつも一本で、何かに反応し覚醒したときに別れるようだが、よくはわからない。
尻尾が一本の状態で、口を開けさえしなければ、見かけは今までのサキと変わらない。
外観だけでなく、変化後の普段の動きも、年老いた後のサキと同じ、ほとんどソファーベッドで丸まって寝ている。
習性で変わったのは、餌も水も摂らなくなり、その結果としてか、尿やフンもしないことだ。
時々起き出して室内を少し歩き回っては、たまに私の膝に乗り、ゴロゴロと喉を鳴らし、またソファーに戻って寝る。
おかしい。猫又というのは、世にも恐ろしい妖怪のはず。体は大きな犬ほどもあり、人を喰らう、とり殺すというのが定説だ。
猫又ではないのではないか?という疑念もないではない。
私は普通の老いた猫から変化したのを知っているから猫又に違いないと思うだけで、初めて見れば、珍種か奇形の猫と思う人もいるだろう。
当初、この姿を画像や動画にしてSNSに流せば大炎上、何らかの形で収益に繋がるのではないかと考えた。
下手をすると、猫に外科的手術を加えて変形させた動物虐待の疑いで立件されるリスクもあったが、表に出さなかったのには、別の理由の方が大きかった。
難しい理由ではない。私はサキが好きだったのだ。
物言わぬサキが、私を好きだったかどうかは定かでない。しかし、何と言っても二十年以上に及ぶ同居生活。その内、十八年ほどは一人と一匹暮らしである。
残りのわずかな年数は、別れた妻も居たのだが、サキはまったく懐いていなかった。
これだけの年数、狭い家にいつも一緒に居ると、別種の生き物とはいえ、ある種の意思疎通が可能になったような気がする。
そんなサキを見世物にするのは忍びなかった。
次に考えたのは、定説、伝承のとおり、猫又が恐るべき妖力を持っているのなら、それをうまく使えば、のさばり返る世間の屑ども、なかでも不倫を重ねたあげく家を出た元妻に、報復の鉄槌を下すことができるのではないかということだ。
猫又サキなら、私の怨念を晴らすことに妖力の出し惜しみはしないだろう。
また、どんなに強くて荒っぽい奴でも、人間なら、猫又の敵ではないはずだ。怖い物なしだ。
しかし、終日ソファーで、のんびりと居眠りする姿を見て、それを期待するのは無理に思えた。
変化後、一ヶ月ほどは、老描サキと変わらぬ猫又サキと、平穏な暮らしが続いていった。
しかし、転機となる事件は間もなく起こったのだ。
深夜である。何時頃かは判らなかったが、おそらく午前二時か三時頃。
普段から眠りの浅い私の耳に、微かな音、足音が聞こえた。サキではない。人間のものだ。
直感的に、泥棒が侵入したと思った。どうせ金などない。死んだふりが一番、早く出て行ってくれと願いながら寝たふりを続ける。
侵入者は家中歩き回って、いろいろと物色しているようだったが、ないものを見つけることはできない。
ついに部屋の灯りを点けて、「おい。おまえ」と声を上げ、ベッドの私に馬乗りになってきた。
「わかるか?強盗だ。金、出す、よい。出さない、だめ、殺す」目出し帽に上下黒づくめの男が、変な日本語で言いながら、ナイフを喉元に突きつけて来た。
「だ、出したいが・・・ないんだ」私の声はかすれた。
「死ぬ。いいのか。金、出せ」
絶体絶命か。・・・そう覚悟した時である。
男の背後から黒い影が、音もなく立ち上がった。
一瞬、賊が二人いたのかと思ったが、そうではなかった。
影は、毛むくじゃらの焦げ茶色の両手らしいものを、男の肩にかけて、私から一気に引き剥がした。
私は、悲鳴を上げてベッドから転がり降り、壁際に身を寄せた。
男が追ってくるかと思ったが、影に抱き取られて身動きが取れないようだ。どこの邦のものかも知れない、わけの分からない言葉で何かわめくが、影は離れない。
影の頭部が私の方に向けられた。キジトラの猫の顔。刺すような鋭い眼光の目は琥珀色。
サキ?猫又のサキだ。
しかし、大きい。大柄な人間の男くらいはある。
男は何とか対面に向きを変えて、絶叫しながらナイフで猫又を突きまくった。
猫又は、突かれても血が流れるわけでもなく意に介さない。向き合って抱き合ったような格好になると、男を抱えたままベッドを降り、なおも暴れる男を隣の物置部屋に引きずって行く。
ベッドを汚すと叱られる猫のサキの記憶が残っているのかも知れない。
物置部屋に男を引きずり込んだ猫又は、腰砕けになった男の背後へ身を移し、片手で男の首を横にねじ曲げる。
目出しマスクがずれて男の首筋が露わになる。
その首筋に猫又は噛みつくでもなく、まるでキスするかのように口を付け、すぐに離した。男の首筋に三センチほどの裂け目のような傷ができたのが見てとれた。
猫又も、その傷を確認するように一瞥すると、クワッとばかりに口を開く。耳まで裂けた血のような色の口から、これも真っ赤な二本に裂けた舌が、ぬるりと現れる。
絡み合う二匹の細い蛇のように、くねる舌が、絶叫する男の顔を這い、その先端が、首筋の傷に向かっていく。
そして舌先が傷口に侵入した。
男は激しく苦悶した。「おう、おう」と言うような声をあげ、両腕を振り回すが、空を切るばかり。猫又は離れない。
顔面の皮膚が怒張した血管のように、膨らんだり戻ったりする。猫又の舌が皮膚の下を這いずっているようだ。
目や鼻の穴から、時々、真っ赤な舌先の先端がのぞく。
身もだえこそ続いていたが、男の声は段々と小さく弱くなっていった。
やがて、舌が首から下の体内に入っていったのだろう。男は、口から血泡を吹き、手足を断末魔の大蜘蛛のように、大きく痙攣させる。
めくれ上がったTシャツから、露わになったタトゥーだらけの腹の皮に、大きなミミズ腫れの様な隆起が浮かんでは消える。
男は静かになった。死んだのだろうか。
猫又は首をぶるんと振る。首筋の傷口から長い舌がずるずると引き上げられ、口の中に納まっていく。
次に猫又は、抱えていた男を床に放り出し、口を大きく開けると、男の右の二の腕に喰らいついた。
そして、顔を左右に動かし、その肉をそぎ取るように、貪り喰いはじめた。
心臓は止まっているのかも知れないが、まだ、血管は生きているのだろう。血飛沫(ちしぶき)が舞い、血の色とは対照的な白い骨が露出してくる。
何とも名状しがたいおぞましい光景に、私はベッドからシーツを引っ張って、頭から引っ被った。
とても見ていられるものじゃなかったのだ。
「た、大変なことになった。これは殺人事件だ」
引っ被ったシーツの下で私は震えながら考える。
「警察に通報しなければ。だが、まず疑われるのは俺だ。過剰防衛もいいとこ、殺してしまっては重大な責任を問われる。猫又がやったんだ、なんて誰が信じるものか。百歩譲って信じてくれても、今度はサキだ。俺を守るためにやったことで、サキは捕獲され殺されてしまうだろう」
猫又は、時折、シューッという息を吐くような音を発するものの、終始無言。
煩悶する私の耳には、猫又が、男の軟骨を囓っているのだろう、コリコリ、コリコリという音が断続的に入ってくる。時々は、ずずーっと何か柔らかい物をすするような音。内臓を吸い込んでいるのか?
私は震え上がって歯の根も合わなかった。
いくら本当はサキなんだと思っても、相手は私を殺したかも知れない強盗犯であっても、猫又が人を喰っているのだ。
しかし、やがて、不気味な音は止み、さらにやや間を置いて、何かがシーツ越しに私の足を踏んできた。
恐る恐る頭に被ったシーツを除けてみると、サキだった。巨大な猫又のサキではなく、昔どおりの大きさのサキだった。
サキはそれ以上、私に構うことはなく、音もなく歩いて、ソファーに飛び乗り、何事もなかったかのように、背を丸め、居眠りを始めそうな気配だった。
物置部屋の惨状を見るのは怖かった。血みどろの惨殺屍体など見たくない。しかし、見ないわけにはいかないだろう。
すっかり腰が抜けたようになっていた体を何とか奮い立たせ、目をつむったまま物置部屋に入り、恐る恐る目を開けてみる。
何だこれは?
床の上には、男の着ていた服や目出しマスク、靴などが散らばっている。手にしていたナイフ、腕時計もその周辺に見えた。
しかし、屍体がない。あれほど流れていた血の跡も。
私は、しばし、呆然としていたが、意を決して床に触ってみた。湿り気はない。
次にしゃがんで顔を背けたまま、床の匂いを嗅いでみた。ほこり臭いが、血のような臭いではない。
男の残した衣類にも、まったく血や体液の跡はなかった。
あれは悪い夢だったのか・・・私の妄想、幻覚だったのか・・・では、この残された衣類やナイフは何なんだ?
猫又は男の身体だけを喰ったのか?
サキに聞いても答えるはずはない。しかし、だんだん、そうだという確信が持ててきた。
そしてこれなら、残された物さえ始末すれば、この惨劇はなかったことになると思えてきた。
窓の外が白み始め、朝の気配が近づいていた。
今日は、ゴミの収集日のはず。私はゴミ袋を持ち出し、男の残した物を、手当たり次第、放り込んでいった。ナイフと腕時計には価値がありそうで、一瞬ためらいがあったが、それも放り込んだ。
目出しマスクをつまみ上げたとき、何か小さい塊がいくつか転がり落ちた。よく見ると、歯に被した虫歯治療用の金属冠のようだ。それも、マスク越しにつまんでゴミ袋に入れる。
間違いない、猫又は、肉体だけを喰ったのだ。生命と、生命が宿る肉体だけが、猫又の餌となるのだ。
大慌てでゴミ袋を集積所に出して、息を切らして戻って来ると、部屋は何事もなかったように静かで、サキはソファーで居眠りをしている。
私は一気に気が抜け、くずおれるようにサキの横に腰を下ろした。
呼吸が少しずつ整ってくると、ある考えが浮かんできた。
いける・・・!これなら、猫又の妖力で、証拠を残さず、屑どもを抹殺できる!
屍体が残らないのだ。完全犯罪という言葉まで脳裏をかすめた。
昨夜はたまたまの私の危機に、猫又が立ち向かって守ってくれたわけだが、我が愛しのサキなら、私の怨念も汲み取ってくれるはずだ。
あの不倫腐れ元妻を何とかおびき出して・・・間男共々・・・。
女の連絡先を調べようと思ったが、その前にもう一度試してみるのもよいだろうと考え直し、スマホで、よろしくない付き合いの知人に電話する。
「あ、俺だけど。やっと金が用意できたよ。そう、一括で全額返す。ずいぶん遅れてすまなかったね。もちろん利子もだよ。うん、それがさ、腰を痛めちゃってさ、歩けないんだ。悪いけど取りに来てくれないかな。もちろん、交通費も払うから。タクシーでいいからさ。今から?いいとも。待ってるよ」
返済金ができたのが嘘だと判れば、借金取りは私に暴行しようとするだろう。いくらでもこい。そうなれば、こっちには猫又が・・・これで、借金取りもいなくなる。借金もなくなるのと同然だ。
それが上手く運んだら、その次は腐れ元妻だ。
昨夜の強盗は、死んでから猫又に喰われたが、あの外道女には生きたまま喰われてもらおう。
大事な臓器には傷を付けず、最後まで生きたまま、内臓と骨だけにしてやる。殺すのはそのあとだ。
やってくれるか?
私は居眠りしているサキの頭を、そんな思いを込めて撫でてみた。
サキは物憂げに顔を上げ、しばらく私の目を見ていたが、すぐに、長い真っ赤な二本の舌を、文字通り舌なめずりするように大きく出して、その耳まで裂けた口で、にゃあと鳴いてみせた。
(完)
体の大きさは変わらない、キジトラの毛色も、琥珀色の目も。しかし、尻尾は付け根から二つに別れ、にゃぁと鳴けば口は耳まで裂けた。
舌は色が真っ赤になり、これも二本に別れ互いに絡み合う。時々十センチほど出したりするが、すぐに引っ込めるので、全体がどのくらいの長さかはわからない。
尻尾は、また一本に戻ったり、急に二本になったりする。寝ているときはいつも一本で、何かに反応し覚醒したときに別れるようだが、よくはわからない。
尻尾が一本の状態で、口を開けさえしなければ、見かけは今までのサキと変わらない。
外観だけでなく、変化後の普段の動きも、年老いた後のサキと同じ、ほとんどソファーベッドで丸まって寝ている。

習性で変わったのは、餌も水も摂らなくなり、その結果としてか、尿やフンもしないことだ。
時々起き出して室内を少し歩き回っては、たまに私の膝に乗り、ゴロゴロと喉を鳴らし、またソファーに戻って寝る。
おかしい。猫又というのは、世にも恐ろしい妖怪のはず。体は大きな犬ほどもあり、人を喰らう、とり殺すというのが定説だ。
猫又ではないのではないか?という疑念もないではない。
私は普通の老いた猫から変化したのを知っているから猫又に違いないと思うだけで、初めて見れば、珍種か奇形の猫と思う人もいるだろう。
当初、この姿を画像や動画にしてSNSに流せば大炎上、何らかの形で収益に繋がるのではないかと考えた。
下手をすると、猫に外科的手術を加えて変形させた動物虐待の疑いで立件されるリスクもあったが、表に出さなかったのには、別の理由の方が大きかった。
難しい理由ではない。私はサキが好きだったのだ。
物言わぬサキが、私を好きだったかどうかは定かでない。しかし、何と言っても二十年以上に及ぶ同居生活。その内、十八年ほどは一人と一匹暮らしである。
残りのわずかな年数は、別れた妻も居たのだが、サキはまったく懐いていなかった。
これだけの年数、狭い家にいつも一緒に居ると、別種の生き物とはいえ、ある種の意思疎通が可能になったような気がする。
そんなサキを見世物にするのは忍びなかった。
次に考えたのは、定説、伝承のとおり、猫又が恐るべき妖力を持っているのなら、それをうまく使えば、のさばり返る世間の屑ども、なかでも不倫を重ねたあげく家を出た元妻に、報復の鉄槌を下すことができるのではないかということだ。
猫又サキなら、私の怨念を晴らすことに妖力の出し惜しみはしないだろう。
また、どんなに強くて荒っぽい奴でも、人間なら、猫又の敵ではないはずだ。怖い物なしだ。
しかし、終日ソファーで、のんびりと居眠りする姿を見て、それを期待するのは無理に思えた。
変化後、一ヶ月ほどは、老描サキと変わらぬ猫又サキと、平穏な暮らしが続いていった。
しかし、転機となる事件は間もなく起こったのだ。
深夜である。何時頃かは判らなかったが、おそらく午前二時か三時頃。
普段から眠りの浅い私の耳に、微かな音、足音が聞こえた。サキではない。人間のものだ。
直感的に、泥棒が侵入したと思った。どうせ金などない。死んだふりが一番、早く出て行ってくれと願いながら寝たふりを続ける。
侵入者は家中歩き回って、いろいろと物色しているようだったが、ないものを見つけることはできない。
ついに部屋の灯りを点けて、「おい。おまえ」と声を上げ、ベッドの私に馬乗りになってきた。
「わかるか?強盗だ。金、出す、よい。出さない、だめ、殺す」目出し帽に上下黒づくめの男が、変な日本語で言いながら、ナイフを喉元に突きつけて来た。
「だ、出したいが・・・ないんだ」私の声はかすれた。
「死ぬ。いいのか。金、出せ」
絶体絶命か。・・・そう覚悟した時である。
男の背後から黒い影が、音もなく立ち上がった。

影は、毛むくじゃらの焦げ茶色の両手らしいものを、男の肩にかけて、私から一気に引き剥がした。
私は、悲鳴を上げてベッドから転がり降り、壁際に身を寄せた。
男が追ってくるかと思ったが、影に抱き取られて身動きが取れないようだ。どこの邦のものかも知れない、わけの分からない言葉で何かわめくが、影は離れない。
影の頭部が私の方に向けられた。キジトラの猫の顔。刺すような鋭い眼光の目は琥珀色。
サキ?猫又のサキだ。
しかし、大きい。大柄な人間の男くらいはある。
男は何とか対面に向きを変えて、絶叫しながらナイフで猫又を突きまくった。
猫又は、突かれても血が流れるわけでもなく意に介さない。向き合って抱き合ったような格好になると、男を抱えたままベッドを降り、なおも暴れる男を隣の物置部屋に引きずって行く。
ベッドを汚すと叱られる猫のサキの記憶が残っているのかも知れない。
物置部屋に男を引きずり込んだ猫又は、腰砕けになった男の背後へ身を移し、片手で男の首を横にねじ曲げる。
目出しマスクがずれて男の首筋が露わになる。
その首筋に猫又は噛みつくでもなく、まるでキスするかのように口を付け、すぐに離した。男の首筋に三センチほどの裂け目のような傷ができたのが見てとれた。
猫又も、その傷を確認するように一瞥すると、クワッとばかりに口を開く。耳まで裂けた血のような色の口から、これも真っ赤な二本に裂けた舌が、ぬるりと現れる。
絡み合う二匹の細い蛇のように、くねる舌が、絶叫する男の顔を這い、その先端が、首筋の傷に向かっていく。
そして舌先が傷口に侵入した。
男は激しく苦悶した。「おう、おう」と言うような声をあげ、両腕を振り回すが、空を切るばかり。猫又は離れない。
顔面の皮膚が怒張した血管のように、膨らんだり戻ったりする。猫又の舌が皮膚の下を這いずっているようだ。
目や鼻の穴から、時々、真っ赤な舌先の先端がのぞく。
身もだえこそ続いていたが、男の声は段々と小さく弱くなっていった。
やがて、舌が首から下の体内に入っていったのだろう。男は、口から血泡を吹き、手足を断末魔の大蜘蛛のように、大きく痙攣させる。
めくれ上がったTシャツから、露わになったタトゥーだらけの腹の皮に、大きなミミズ腫れの様な隆起が浮かんでは消える。
男は静かになった。死んだのだろうか。
猫又は首をぶるんと振る。首筋の傷口から長い舌がずるずると引き上げられ、口の中に納まっていく。
次に猫又は、抱えていた男を床に放り出し、口を大きく開けると、男の右の二の腕に喰らいついた。
そして、顔を左右に動かし、その肉をそぎ取るように、貪り喰いはじめた。
心臓は止まっているのかも知れないが、まだ、血管は生きているのだろう。血飛沫(ちしぶき)が舞い、血の色とは対照的な白い骨が露出してくる。
何とも名状しがたいおぞましい光景に、私はベッドからシーツを引っ張って、頭から引っ被った。
とても見ていられるものじゃなかったのだ。
「た、大変なことになった。これは殺人事件だ」
引っ被ったシーツの下で私は震えながら考える。
「警察に通報しなければ。だが、まず疑われるのは俺だ。過剰防衛もいいとこ、殺してしまっては重大な責任を問われる。猫又がやったんだ、なんて誰が信じるものか。百歩譲って信じてくれても、今度はサキだ。俺を守るためにやったことで、サキは捕獲され殺されてしまうだろう」
猫又は、時折、シューッという息を吐くような音を発するものの、終始無言。
煩悶する私の耳には、猫又が、男の軟骨を囓っているのだろう、コリコリ、コリコリという音が断続的に入ってくる。時々は、ずずーっと何か柔らかい物をすするような音。内臓を吸い込んでいるのか?
私は震え上がって歯の根も合わなかった。
いくら本当はサキなんだと思っても、相手は私を殺したかも知れない強盗犯であっても、猫又が人を喰っているのだ。
しかし、やがて、不気味な音は止み、さらにやや間を置いて、何かがシーツ越しに私の足を踏んできた。
恐る恐る頭に被ったシーツを除けてみると、サキだった。巨大な猫又のサキではなく、昔どおりの大きさのサキだった。
サキはそれ以上、私に構うことはなく、音もなく歩いて、ソファーに飛び乗り、何事もなかったかのように、背を丸め、居眠りを始めそうな気配だった。
物置部屋の惨状を見るのは怖かった。血みどろの惨殺屍体など見たくない。しかし、見ないわけにはいかないだろう。
すっかり腰が抜けたようになっていた体を何とか奮い立たせ、目をつむったまま物置部屋に入り、恐る恐る目を開けてみる。
何だこれは?
床の上には、男の着ていた服や目出しマスク、靴などが散らばっている。手にしていたナイフ、腕時計もその周辺に見えた。
しかし、屍体がない。あれほど流れていた血の跡も。

私は、しばし、呆然としていたが、意を決して床に触ってみた。湿り気はない。
次にしゃがんで顔を背けたまま、床の匂いを嗅いでみた。ほこり臭いが、血のような臭いではない。
男の残した衣類にも、まったく血や体液の跡はなかった。
あれは悪い夢だったのか・・・私の妄想、幻覚だったのか・・・では、この残された衣類やナイフは何なんだ?
猫又は男の身体だけを喰ったのか?
サキに聞いても答えるはずはない。しかし、だんだん、そうだという確信が持ててきた。
そしてこれなら、残された物さえ始末すれば、この惨劇はなかったことになると思えてきた。
窓の外が白み始め、朝の気配が近づいていた。
今日は、ゴミの収集日のはず。私はゴミ袋を持ち出し、男の残した物を、手当たり次第、放り込んでいった。ナイフと腕時計には価値がありそうで、一瞬ためらいがあったが、それも放り込んだ。
目出しマスクをつまみ上げたとき、何か小さい塊がいくつか転がり落ちた。よく見ると、歯に被した虫歯治療用の金属冠のようだ。それも、マスク越しにつまんでゴミ袋に入れる。
間違いない、猫又は、肉体だけを喰ったのだ。生命と、生命が宿る肉体だけが、猫又の餌となるのだ。
大慌てでゴミ袋を集積所に出して、息を切らして戻って来ると、部屋は何事もなかったように静かで、サキはソファーで居眠りをしている。
私は一気に気が抜け、くずおれるようにサキの横に腰を下ろした。
呼吸が少しずつ整ってくると、ある考えが浮かんできた。
いける・・・!これなら、猫又の妖力で、証拠を残さず、屑どもを抹殺できる!
屍体が残らないのだ。完全犯罪という言葉まで脳裏をかすめた。
昨夜はたまたまの私の危機に、猫又が立ち向かって守ってくれたわけだが、我が愛しのサキなら、私の怨念も汲み取ってくれるはずだ。
あの不倫腐れ元妻を何とかおびき出して・・・間男共々・・・。
女の連絡先を調べようと思ったが、その前にもう一度試してみるのもよいだろうと考え直し、スマホで、よろしくない付き合いの知人に電話する。
「あ、俺だけど。やっと金が用意できたよ。そう、一括で全額返す。ずいぶん遅れてすまなかったね。もちろん利子もだよ。うん、それがさ、腰を痛めちゃってさ、歩けないんだ。悪いけど取りに来てくれないかな。もちろん、交通費も払うから。タクシーでいいからさ。今から?いいとも。待ってるよ」
返済金ができたのが嘘だと判れば、借金取りは私に暴行しようとするだろう。いくらでもこい。そうなれば、こっちには猫又が・・・これで、借金取りもいなくなる。借金もなくなるのと同然だ。

昨夜の強盗は、死んでから猫又に喰われたが、あの外道女には生きたまま喰われてもらおう。
大事な臓器には傷を付けず、最後まで生きたまま、内臓と骨だけにしてやる。殺すのはそのあとだ。
やってくれるか?
私は居眠りしているサキの頭を、そんな思いを込めて撫でてみた。
サキは物憂げに顔を上げ、しばらく私の目を見ていたが、すぐに、長い真っ赤な二本の舌を、文字通り舌なめずりするように大きく出して、その耳まで裂けた口で、にゃあと鳴いてみせた。
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