第7話 事故物件
今の時代なら、たぶん建築確認が下りないだろう、狭い敷地に無理やりねじ込んだような、古い、学生、単身者向けアパート。
三階建ての各階に四室あって、俺は二階の端、二百四号室を借りている。何といっても家賃が安いのと、地下鉄の駅や商店街に近い。利便性とかのけっこう良いところで、当面ここにいるつもりだ。地下鉄と市営バスで、大学まで三十分足らずというのも魅力である。
それがどうだろう、夏休みの終わり頃だから、もう二ヶ月ほど前から、退去者がやたらと多くなり、ほとんど満室だったのが、各階に一人ずつとなってしまった。二階は俺一人だ。
二、三人新たな入居者はあったみたいだが、すぐに退去してしまったようだ。
これは何かある。俺が知らないだけで、何かあるなと、思わざるを得ない。
そんなある日、一階への外階段を降りると、不動産屋の営業と思われる男と、入居を検討中らしい学生風の男が、一階の一室の前で何やらやりとりをしていた。
俺は、階段を降りたところにある足洗い場で、靴を洗う振りをして聞き耳を立てた。
営業は「事故物件じゃない」と繰り返していた。「事故物件は事故のあった部屋のことで、このアパート全体じゃない。この部屋は関係ない」と説得しているようだ。それでも、学生風の男は決めかねているようだった。
事故物件!なるほど、そうか!何か事件があったんだ!自殺?殺人?変死体?
俄然、何があったのか知りたくなった。しかし、二ヶ月くらいも前となると、新聞記事を探すのもやっかいだ。もっと前かも知れないし。
その夜、俺以外には二人しかいない入居者に聞いてみようと思い立った。
一階百三号室の学生とは少し立ち話をしたことがあり、おとなしそうな印象だったので、まず行ってみたが、灯りも付いておらず、留守のようだった。
仕方がないので、訳を話せばと思い、三階の三百一号室へ。灯りは点いていた。
二三度姿を見かけた、随分体格の良い、短髪のやつで、たぶん体育会系だろう。話したことはなく、当然、性格はまったく知らない。おっかないやつだったら、早々に引き上げる気でドアを軽くノックする。反応がない。
寝ているのかも知れない。ヘッドフォンで音楽を聴いているのかも。
ちょっと間を置いて、強めにノックしてみたが、同じだった。
灯りを点けたまま外出しているのかも知れない。急ぐことでもなし、明日出直そうと決め退散することにした。
翌朝は明け方からうるさかった。三階から外階段を何度も上り下りしているような音がする。流し台の上の窓を少し開け覗いてみると、数人の男たちが荷物を運び出している。男たちの一人は、三階の住人、昨夜会えなかった体育会系らしきやつだ。
ひどく慌てた様子で、ろくに閉じてもいない段ボール箱などを運びながら、大きな声で話しているのが聞こえた。
「絶対、嘘じゃねぇったら。ドアの隙間から見えたんだ」
「なんでそれが幽霊だと判るんだよ」
「言ったじゃねぇか。体が透き通って向こう側が見えてたんだよ。首から首つりの縄を垂れ下げて」
「酔ってたんじゃないのか?」
「飲んでねぇよ。今までに引っ越したやつらは、廊下を歩いてるのを見ただけなんだ。けど、昨夜は違う、俺の部屋のドアを何度も叩きやがったんだ。いくら俺でも、こんなとこ、もう、居られやしないよ」
やがて車のエンジン音がして、去って行ったのだろう、声もしなくなった。
ふう。部屋は判らないが、あったのは首つりか。そして、そいつが化けて出ると。
それが本当なら、みんなが逃げ出すのも解るが、この令和の時代に、死霊が夜毎にさまよい歩くなど、荒唐無稽の笑止千万。
だいたい、昨夜、ドアをノックしたのはこの俺だ。でかい図体をしながら、ビビっているから、死霊が来たとでも思い込んで、幻覚を見たのだろう。
そもそも、長く住んでる俺が知らないと言うことは、首つり事件自体が、いい加減な噂話なのかも知れない。
今夜にでも、まともそうな一階の学生に聞いてみよう。
それにしても・・・困ったな。首の周りが痛痒くてかなわない。いつ付いたものか、首をひとまわりする傷がただれて、もう二ヶ月以上にもなるのに、全然治りゃしない。
なんなんだろう、この変な傷は?
(完)
三階建ての各階に四室あって、俺は二階の端、二百四号室を借りている。何といっても家賃が安いのと、地下鉄の駅や商店街に近い。利便性とかのけっこう良いところで、当面ここにいるつもりだ。地下鉄と市営バスで、大学まで三十分足らずというのも魅力である。
それがどうだろう、夏休みの終わり頃だから、もう二ヶ月ほど前から、退去者がやたらと多くなり、ほとんど満室だったのが、各階に一人ずつとなってしまった。二階は俺一人だ。
二、三人新たな入居者はあったみたいだが、すぐに退去してしまったようだ。
これは何かある。俺が知らないだけで、何かあるなと、思わざるを得ない。
そんなある日、一階への外階段を降りると、不動産屋の営業と思われる男と、入居を検討中らしい学生風の男が、一階の一室の前で何やらやりとりをしていた。
俺は、階段を降りたところにある足洗い場で、靴を洗う振りをして聞き耳を立てた。
営業は「事故物件じゃない」と繰り返していた。「事故物件は事故のあった部屋のことで、このアパート全体じゃない。この部屋は関係ない」と説得しているようだ。それでも、学生風の男は決めかねているようだった。
事故物件!なるほど、そうか!何か事件があったんだ!自殺?殺人?変死体?
俄然、何があったのか知りたくなった。しかし、二ヶ月くらいも前となると、新聞記事を探すのもやっかいだ。もっと前かも知れないし。
その夜、俺以外には二人しかいない入居者に聞いてみようと思い立った。
一階百三号室の学生とは少し立ち話をしたことがあり、おとなしそうな印象だったので、まず行ってみたが、灯りも付いておらず、留守のようだった。
仕方がないので、訳を話せばと思い、三階の三百一号室へ。灯りは点いていた。

二三度姿を見かけた、随分体格の良い、短髪のやつで、たぶん体育会系だろう。話したことはなく、当然、性格はまったく知らない。おっかないやつだったら、早々に引き上げる気でドアを軽くノックする。反応がない。
寝ているのかも知れない。ヘッドフォンで音楽を聴いているのかも。
ちょっと間を置いて、強めにノックしてみたが、同じだった。
灯りを点けたまま外出しているのかも知れない。急ぐことでもなし、明日出直そうと決め退散することにした。
翌朝は明け方からうるさかった。三階から外階段を何度も上り下りしているような音がする。流し台の上の窓を少し開け覗いてみると、数人の男たちが荷物を運び出している。男たちの一人は、三階の住人、昨夜会えなかった体育会系らしきやつだ。
ひどく慌てた様子で、ろくに閉じてもいない段ボール箱などを運びながら、大きな声で話しているのが聞こえた。
「絶対、嘘じゃねぇったら。ドアの隙間から見えたんだ」
「なんでそれが幽霊だと判るんだよ」
「言ったじゃねぇか。体が透き通って向こう側が見えてたんだよ。首から首つりの縄を垂れ下げて」
「酔ってたんじゃないのか?」
「飲んでねぇよ。今までに引っ越したやつらは、廊下を歩いてるのを見ただけなんだ。けど、昨夜は違う、俺の部屋のドアを何度も叩きやがったんだ。いくら俺でも、こんなとこ、もう、居られやしないよ」
やがて車のエンジン音がして、去って行ったのだろう、声もしなくなった。
ふう。部屋は判らないが、あったのは首つりか。そして、そいつが化けて出ると。
それが本当なら、みんなが逃げ出すのも解るが、この令和の時代に、死霊が夜毎にさまよい歩くなど、荒唐無稽の笑止千万。
だいたい、昨夜、ドアをノックしたのはこの俺だ。でかい図体をしながら、ビビっているから、死霊が来たとでも思い込んで、幻覚を見たのだろう。
そもそも、長く住んでる俺が知らないと言うことは、首つり事件自体が、いい加減な噂話なのかも知れない。
今夜にでも、まともそうな一階の学生に聞いてみよう。
それにしても・・・困ったな。首の周りが痛痒くてかなわない。いつ付いたものか、首をひとまわりする傷がただれて、もう二ヶ月以上にもなるのに、全然治りゃしない。
なんなんだろう、この変な傷は?
(完)
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