第6話 旅情
禁漁の蟹を食わせるという怪しげな料理屋の噂に振り回され、真夏の夜の温泉街をさまよい歩いた果てに、蟹には巡り会えず、汗みどろになって旅館に戻ったのは深夜も十二時に近かった。
吉見はすっかり疲れ切った様子だった。しかし、そもそも禁漁蟹の不確かな噂を聞いてきて、この小旅行に誘ったのは吉見である。
「とにかく、汗を流そう。風呂に行こうぜ」
私は、着替えの浴衣とタオルを探しながら誘ったが、吉見は畳に脚を投げ出して、壁にもたれたまま動かない。
「後にする。エアコンの風のほうがいいや。出かける前にも入ったしさ。明日にするかも」
大浴場はすでに閉まっている時間だったが、岩風呂とかいうのが終夜でやっているはずだ。
シーズンオフだからか、不景気なのか、宿泊客は極端に少ないようで、深夜とはいえ、大きな旅館にしては、ずいぶん静かである。
もしかすると客は私たちだけなのかもしれない。
私は、人気のないロビーの古びたソファで、旧式の自販機のスポーツドリンクを飲み、煙草を一本だけ吸った。
少し時間をくってしまったせいか、岩風呂に行くと、行かないと言っていたはずの吉見が、もう先に湯に浸かっていた。
浴衣を脱ぎ捨て、吉見の隣に体を沈める。

「来てくれてよかったよ。何だか薄気味悪くてさ」小さな声で吉見が言う。
「どうして?暗いからか?」
普通にしゃべったつもりだが、声は他に人気のない風呂場に響き陰に籠もって物凄い。私の声も小さくなる。
「なかなか風情があるじゃないの?旅情豊かというやつだよ。」
岩風呂は、天井まで届く大きなガラス窓があり、その向こうには富山湾の夜景が広がっている。黒い海に灯台の明かりと、遙か遠くに、漁り火だろう、いくつかの小さな揺れる灯りを浮かべている。
そして、夜景を引き立たせるためか、照明をかなり落としてあり、実際に薄暗いのだ。
もしかすると、肝心の岩風呂の岩があまり奇麗でなく、それを隠すためかも知れないが。
「なんでこんなに暗くしてあるのかね。暗いとさ、あの向こう側の岩の陰あたりに、何かいるんじゃないかと思えてきてさ。誰かが来てくれるのが待ち遠しかったよ。俺は気が小さいのかな」
「何かいるなら、明るかろうが、暗かろうが、人が来ようが来まいが、いるものはいるし、いないものならいないだけさ。で、いるというのは、例によって霊なのか?」
私は声に出して笑ってしまった。その笑い声も風呂場の中にこだまするようで、正直、不気味である。
「そうかなぁ。俺みたいに、何かの気配を感じて怖くなるということは、まったくないのかい?」
吉見は、気を悪くしたふうでもなく問い返す。
「ないな。そもそも気配というのは、何かの一部分だけが見えているというだけのことだと思うぜ。音や匂いの場合もあるだろうけどさ」
「そんなんじゃないな、全体だよ。何かの全体を感じるんだ。例えば首の後ろに、ほんのちょっとだけど、何か得体の知れない重みを感じる。まるで何かにすがりつかれているようなね。そういうことがよくあったな」
「オマエさんとこには、鏡というものはないのか?すぐに背中を映してみれば判ることじゃないか」
「そんな怖いこと、できるもんじゃないよ、そういう時は。怖いと言えばね、やっぱり何かの気配を感じてさ、自分の部屋の片隅がどうしても見られないことがあったな。家の外でもね、真っ昼間の何でもない空き地なんかに感じるものがあってね、顔を横に向けて小走りに通り過ぎたものさ」
「デジカメでも、いつも持って歩いたらどうだ?何が写るか面白いぜ。」
「ふふ」と吉見は自嘲気味に笑った。「そんなので写した写真を見る勇気があればね。いいな、迷いがない人は。たぶん死んでも迷うことはないよ。俺のような臆病者がね、生きていても迷い、死んでも迷うんだろうね」
「出るぞ。のぼせちまわぁ」私は立ち上がった。と、同時に出入口の引き戸が開く音がした。
振り向くと、タオルで前を隠した吉見の軽度肥満体があった。
「やっぱり、入るわ。汗が冷えて気持ち悪くってさ」後ろ手に引き戸を閉めながら、吉見が言う。
私は、首を廻して、さっきまで浸かっていた岩のあたりを見てみる。
そこには、薄明かりに微かに揺れる湯の表があるだけで、もう誰もいなかった。
そして、熱い湯の中を何か冷たいものが、私の膝のあたりに触れ、ゆっくりと通り過ぎていった。
その岩風呂で滑り、岩で頭を強打して亡くなった男性客がいたと聞いた。
京都に帰ってからしばらくして、馴染みのバーのカウンター、吉見からだった。
(完)
吉見はすっかり疲れ切った様子だった。しかし、そもそも禁漁蟹の不確かな噂を聞いてきて、この小旅行に誘ったのは吉見である。
「とにかく、汗を流そう。風呂に行こうぜ」
私は、着替えの浴衣とタオルを探しながら誘ったが、吉見は畳に脚を投げ出して、壁にもたれたまま動かない。
「後にする。エアコンの風のほうがいいや。出かける前にも入ったしさ。明日にするかも」
大浴場はすでに閉まっている時間だったが、岩風呂とかいうのが終夜でやっているはずだ。
シーズンオフだからか、不景気なのか、宿泊客は極端に少ないようで、深夜とはいえ、大きな旅館にしては、ずいぶん静かである。
もしかすると客は私たちだけなのかもしれない。
私は、人気のないロビーの古びたソファで、旧式の自販機のスポーツドリンクを飲み、煙草を一本だけ吸った。
少し時間をくってしまったせいか、岩風呂に行くと、行かないと言っていたはずの吉見が、もう先に湯に浸かっていた。
浴衣を脱ぎ捨て、吉見の隣に体を沈める。

「来てくれてよかったよ。何だか薄気味悪くてさ」小さな声で吉見が言う。
「どうして?暗いからか?」
普通にしゃべったつもりだが、声は他に人気のない風呂場に響き陰に籠もって物凄い。私の声も小さくなる。
「なかなか風情があるじゃないの?旅情豊かというやつだよ。」
岩風呂は、天井まで届く大きなガラス窓があり、その向こうには富山湾の夜景が広がっている。黒い海に灯台の明かりと、遙か遠くに、漁り火だろう、いくつかの小さな揺れる灯りを浮かべている。
そして、夜景を引き立たせるためか、照明をかなり落としてあり、実際に薄暗いのだ。
もしかすると、肝心の岩風呂の岩があまり奇麗でなく、それを隠すためかも知れないが。
「なんでこんなに暗くしてあるのかね。暗いとさ、あの向こう側の岩の陰あたりに、何かいるんじゃないかと思えてきてさ。誰かが来てくれるのが待ち遠しかったよ。俺は気が小さいのかな」
「何かいるなら、明るかろうが、暗かろうが、人が来ようが来まいが、いるものはいるし、いないものならいないだけさ。で、いるというのは、例によって霊なのか?」
私は声に出して笑ってしまった。その笑い声も風呂場の中にこだまするようで、正直、不気味である。
「そうかなぁ。俺みたいに、何かの気配を感じて怖くなるということは、まったくないのかい?」
吉見は、気を悪くしたふうでもなく問い返す。
「ないな。そもそも気配というのは、何かの一部分だけが見えているというだけのことだと思うぜ。音や匂いの場合もあるだろうけどさ」
「そんなんじゃないな、全体だよ。何かの全体を感じるんだ。例えば首の後ろに、ほんのちょっとだけど、何か得体の知れない重みを感じる。まるで何かにすがりつかれているようなね。そういうことがよくあったな」
「オマエさんとこには、鏡というものはないのか?すぐに背中を映してみれば判ることじゃないか」
「そんな怖いこと、できるもんじゃないよ、そういう時は。怖いと言えばね、やっぱり何かの気配を感じてさ、自分の部屋の片隅がどうしても見られないことがあったな。家の外でもね、真っ昼間の何でもない空き地なんかに感じるものがあってね、顔を横に向けて小走りに通り過ぎたものさ」
「デジカメでも、いつも持って歩いたらどうだ?何が写るか面白いぜ。」
「ふふ」と吉見は自嘲気味に笑った。「そんなので写した写真を見る勇気があればね。いいな、迷いがない人は。たぶん死んでも迷うことはないよ。俺のような臆病者がね、生きていても迷い、死んでも迷うんだろうね」
「出るぞ。のぼせちまわぁ」私は立ち上がった。と、同時に出入口の引き戸が開く音がした。
振り向くと、タオルで前を隠した吉見の軽度肥満体があった。
「やっぱり、入るわ。汗が冷えて気持ち悪くってさ」後ろ手に引き戸を閉めながら、吉見が言う。
私は、首を廻して、さっきまで浸かっていた岩のあたりを見てみる。
そこには、薄明かりに微かに揺れる湯の表があるだけで、もう誰もいなかった。
そして、熱い湯の中を何か冷たいものが、私の膝のあたりに触れ、ゆっくりと通り過ぎていった。
その岩風呂で滑り、岩で頭を強打して亡くなった男性客がいたと聞いた。
京都に帰ってからしばらくして、馴染みのバーのカウンター、吉見からだった。
(完)
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