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第9話 雫の森
八月十五日からの一週間、雫の森(しずくのもり)に入ってはいけないと、大人たちから何べんも聞かされた。
小学四年生で隣の美希ちゃんは、昨日初めて誰かに聞かされたらしい。
「人喰い蜘蛛がいるんだって。本当なの?」
「馬鹿馬鹿しいな。そんなの嘘に決まってるよ」僕は六年生の威厳を見せて笑い飛ばした。「その時期、夏休みの宿題を残して遊び歩いていちゃいけないから、大人はいろんなことを言うんだよ」
「なんだ、そうか。そうだよねぇ」美希ちゃんも笑った。
この時点で、美希ちゃんと僕が、雫の森へ行くことになるのは、決まったようなものだった。
町外れにある雫の森は、森というのも大袈裟なくらいの木立で、雑木林といってもいいようなものだ。
外周りは歩いて一五分くらいあれば一周でき、だいたい真ん中くらいの位置に、反対側へ出られる小道がある。
森の周囲は、野菜畑で、一番近い民家でもかなり離れている。低学年の頃、蝉やクワガタを捕りに入ったことはあるが、あまり成果は上がらなかった。
こんなところに、人間を喰うような蜘蛛なんているはずがない。
八月十五日から一週間だけが繁殖期とかで、母蜘蛛が栄養のため人間を待っているという言い伝えらしいが、普段は何をして何を食べているのか、なぜ人の目につかないのか。そもそも人間を喰うような巨大な蜘蛛が、こんな小さな森で命を繋いでいるなど、あり得ないことだ。
たしか、その時に人間を襲って喰うだけではなく、うまく逃げても、その人間を憶えていて、十年後にはまたやってくると、そんなありえない話も聞いた覚えがある。

八月十六日早朝、僕たち、つまり美希ちゃんと僕は、雫の森へと踏み込んだ。まぁ、度胸試しというところだ。
僕は手ぶらだったが、美希ちゃんは、こっそり家から持ち出したお父さんのデジカメを首から下げ、右手にはお兄さんのものだという金属バットを持っていた。
絶対に人喰い蜘蛛などいないと確信している僕より、もしかしたらいるかもと疑っている美希ちゃんの方が、度胸があるわけだ。
反対側へ抜ける細道をゆっくり歩いてみようじゃないかということになった。
ちょうど半分くらい来たかな、というあたりで、妙なものが目に入った。道の両側は草や小さな木がまばらに生えているばかりなのだが、その向こうの低い雑木が密集している中に、直径にして一メートルくらいの丸い穴があいている。
「あんなのあったかな」と僕。
「知らない。なかったの?」と美希ちゃん。「もしかしてさ。蜘蛛の巣の入口じゃないかしら」
「そうだとすれば、相当大きな蜘蛛だよ」僕は笑った。
「のぞいて、中を見てみようよ」美希ちゃんは、準備運動よろしく、金属バットを振りながら言う。
「馬鹿馬鹿しい。そんな大きな蜘蛛なんて・・・」
僕が言い終わる前に、美希ちゃんは穴に向かって歩き出していた。
「どう?何もいないだろ」
「いないねぇ」美希ちゃんはしゃがんで穴をのぞき込みながら、僕の方を見ずに手招きする。「でも、変だよ。奥の方が明るい」
「どっかへ抜けてるんじゃないか」
「明るい」という美希ちゃんの言葉に元気づいた僕は、穴の入口まで歩いた。
のぞいてみる、中は空洞上ではあるが、地面を除きびっしりと灌木が生い茂っている。先の方で緩くカーブしているようで、その向こうは見通せない。美希ちゃんの言うとおり、その先のあたりから柔らかな光が差し込んでいる。
「先に行って。ついていくから」
美希ちゃんは、もう穴に入ると決めたようだ。
何で僕が先なんだとは思ったが、ワンピースの美希ちゃんとしては、四つん這いで僕の前に行くことに、女の子らしい恥じらいがあったのかも知れない。
空洞の中は、蒸し暑かった。天井に当たる部分から、ポタリ、ポタリと水滴が落ちてくる。なるほど雫の森か。
カーブの曲がり初めまでは十メートル以上あるように思えた。
カーブの手前から、奥から差してくる光で周囲はすっかり明るくなり、水滴も落ちてこない。急に温度が下がったようだ。微かではあるが、爽やかな風さえ感じられた。カーブを曲がれば数メートルもなく、空洞は終わっていた。
穴から這い出して、腰を伸ばし、周囲を見る。・・・ここは何だ?
「はあぁぁぁ・・・」後から穴を出た美希ちゃんも、膝に付いた葉っぱの屑も払わず立ちあがり、声を上げた。
そこは周囲を濃い緑の木々で囲まれた・・・広場だった。くるぶしくらいまでの、柔らかい草が一面を覆っている。
広場の真ん中あたりに、腰掛けられそうな石が五つ六つ集まってある以外、何もない。
「きれいだね、ここ」
「ああ、気持ちいいな。涼しいし」
「あそこの・・・石の所へ行ってみようよ」美希ちゃんはもう歩き出しながら言う。
石にも汚れた所はなく、腰掛けるにはちょうどいい。
腰掛けて周囲を見渡すと、僕たちが通ってきた空洞の出口以外、低い灌木がぐるりと広場を一周していて、その後ろには大きな木々が茂っている。
「あの辺りだな」僕は適当な所を指さす。「あの辺りから。毛むくじゃらな長い脚の人喰い蜘蛛が、ガサガサッと出てくるんだよ」
美希ちゃんは声を上げて笑った。
「もう、ちっとも怖くないよぉ。こんな明るくてきれいなところに、そんな化け物がいるはずないよぉ」
美希ちゃんはデジカメと金属バットを、大急ぎで石の上に置いて駆け出した。
しかし、どうも変だ。外から見た雫の森の大きさから、こんな広場があるなんて不自然だ。それに、気温も湿度も、森の中とは大違い。なんて爽やかなんだ。わずかな距離や位置の違いでこんなに変わるんだろうか?
でも、たしかに広場は目の前にある。両手を上げて吹き渡るそよ風に戯れているのは、美希ちゃんだ。
美希ちゃんは、風に吹かれ飛ぶ花びらのように、広場のあちらこちらをスキップするようにして駆け回った。
僕は石に腰掛けてそんな美希ちゃんを目で追っていた。
可愛いな、美希ちゃんは・・・幸福を感じる夢のような時間は、たちまちに過ぎていった。
次の日、美希ちゃんは来なかった。その次の日も、その翌日も。
隣と言っても郊外の町であり、美希ちゃんの家はかなり離れている。よほど僕の方から行ってみようと思ったが、年下の女の子である。僕から遊びに行くのは気が引けた。
しかし、五日経っても美希ちゃんは現れない。病気なのかも知れない。
六日目の朝、やはり美希ちゃんは姿を見せず、夏休みももうすぐ終わろうとしている。
あそこかも・・・理由はなかったが、もしかするとあの広場に・・・なぜかそんな気がして、僕は一人で雫の森へ行ってみた。
まだ朝のうちで、真夏のお日様もそれほど厳しくはなかった。
森の中は人気もなく静かで、細い道の中程まで来ると、茂みの中の穴はあの日と変わらなかった。
一度通った穴であり、今度はためらわず入っていくことができた。やはりポタリ、ポタリと落ちてくる雫が、四つん這いで進む僕の首筋や腕を濡らす。
向こう側へ出ると、例の緑の広場が待っていた。
・・・と?
「美希ちゃん?」美希ちゃんだ。
中央の石の少し向こうに、青いワンピースの後ろ姿を見せているのは美希ちゃんに違いない。やっぱり、ここへ来ていたんだ。
僕が駆け寄ろうとする途中で、美希ちゃんがゆっくりとこっちを向いた。やっぱり美希ちゃんだ。
でも、僕の脚は止まってしまった。美希ちゃんの表情は今まで見たこともないくらい暗く、そして透き通るように白いその顔色・・・。
「どうしたんだ。美希ちゃん・・・」
「・・・蜘蛛だよ。人喰い蜘蛛は・・・いたんだよ」
美希ちゃんの両目から涙がこぼれ落ちた。白い・・・涙?
半透明な白い涙は、ゆっくりと美希ちゃんの両頬に広がっていく。
「こんなところへ、来ちゃいけなかったんだよ」美希ちゃんがかすれた声で言うと、その唇の表面が裂け、そこからも白い液のようなものが滴り出た。
もっと何か言おうとしたのか、美希ちゃんが少し口を開くと、口の中も白いものでいっぱいだった。その白いものは、最初は糸を引くように、すぐにだらだらと美希ちゃんの口からしたたり落ちた。
「ど、どうしたんだ」駆け寄って思わず美希ちゃんの肩に手を置く。僕の指は、ワンピース越しにズブズブと美希ちゃんの肩に沈み込んだ。
熟れすぎた柿の実に触れるような異様な感触。
驚いて手を引いて見てみると、僕の指にも白い液のようなものが付いていた。そしてそれは微かに動いていた。
目を凝らすと・・・それは一つ一つは半ミリにも満たない小さな半透明の白い点の集まりで、それぞれに細い脚のようなものが・・・蜘蛛だ。小さな無数の蜘蛛の集団だ。
細い多くの脚をそれぞれにせわしなく蠢かせながら、それらは一つの流れとなって僕の手に広がり、腕を這い上ってくる。
僕は悲鳴を上げて手を強く振ってそれらを振り払おうとした。
同時に目をあげて美希ちゃんを見ると、美希ちゃんは背が半分くらいになっている。両足が地面にめり込んだように短くなり、地面との接点には、一部は盛り上がるようにして、白いものが草の間をわらわらと広がっていく。
両腕は抜け落ちたように足元に転がり、付け根から白いものが溢れ出すにつれ、萎んでいく。そして、皮膚だろう、黄色い薄い膜のようなものが吹く風にゆらゆらとなびいている。
見る見るうちに、お腹も胸も溶けるように消えていき、動く白い液体に変わっていく。青いワンピースは脱ぎ捨てられたようにくずおれ、その上に美希ちゃんの首だけが乗っかっているようになった。
その首からは、目と言わず、鼻と言わず、口と言わず、白いものが溢れ出てくる。
僕は気が遠くなり、その場に横倒しに倒れてしまった。
「み、美希ちゃん・・・」答はない。
そして薄れていく僕の意識と視界の中を、何か環のようになった黒いものが、折からの風に風に吹かれて転がっていった。
美希ちゃんの・・・髪の毛?
意識は遠のき、僕は底知れぬ闇の中に落ちていった。
僕は雫の森の入口のあたりに倒れているところを発見され、病院に運ばれたそうだ。怪我はなく一週間ほど病院にいて退院した。
退院すると警察や何かの専門家、両親や学校の先生の質問攻めが待っていた。
特に警察の質問はしつこかった。それは、美希ちゃんが行方不明になっていたからだ。
僕はありのままを答えた。誰も信じてくれなかった。
警察はすぐ森に行ったが、茂みの穴も広場もなかったという。しばらくおいて僕も警官に連れられて、森に行ったが、やはり穴も広場もなかった。
それが、なぜか不思議ではなく当然のような気がした。

僕は大学を中退して始めた情報関連の起業があたり、お金には不自由しない。両親とも疎遠になり友だちもなく、大都会の高層マンションの最上階に一人で暮らしている。
天井までの大きな湾曲したガラス窓の向こうに東京湾の夜景が見える。海を取り巻く街の灯りが、時に瞬きながら星屑のように海に浮かんでいる。
美希ちゃんは見つからなかった。でも、僕には美希ちゃんがどこにいるか判っているのだ。
美希ちゃん・・・待たせたね。もうすぐだよ。また会えるよ。
僕の肘の内側、前腕の皮膚が酷く薄くなり透き通るようだ。
その皮膚の下、微かな陰影をもって、さざ波のように繰り返し蠢くものが何か、僕は知っている。(完)
小学四年生で隣の美希ちゃんは、昨日初めて誰かに聞かされたらしい。
「人喰い蜘蛛がいるんだって。本当なの?」
「馬鹿馬鹿しいな。そんなの嘘に決まってるよ」僕は六年生の威厳を見せて笑い飛ばした。「その時期、夏休みの宿題を残して遊び歩いていちゃいけないから、大人はいろんなことを言うんだよ」
「なんだ、そうか。そうだよねぇ」美希ちゃんも笑った。
この時点で、美希ちゃんと僕が、雫の森へ行くことになるのは、決まったようなものだった。
町外れにある雫の森は、森というのも大袈裟なくらいの木立で、雑木林といってもいいようなものだ。
外周りは歩いて一五分くらいあれば一周でき、だいたい真ん中くらいの位置に、反対側へ出られる小道がある。
森の周囲は、野菜畑で、一番近い民家でもかなり離れている。低学年の頃、蝉やクワガタを捕りに入ったことはあるが、あまり成果は上がらなかった。
こんなところに、人間を喰うような蜘蛛なんているはずがない。
八月十五日から一週間だけが繁殖期とかで、母蜘蛛が栄養のため人間を待っているという言い伝えらしいが、普段は何をして何を食べているのか、なぜ人の目につかないのか。そもそも人間を喰うような巨大な蜘蛛が、こんな小さな森で命を繋いでいるなど、あり得ないことだ。
たしか、その時に人間を襲って喰うだけではなく、うまく逃げても、その人間を憶えていて、十年後にはまたやってくると、そんなありえない話も聞いた覚えがある。

八月十六日早朝、僕たち、つまり美希ちゃんと僕は、雫の森へと踏み込んだ。まぁ、度胸試しというところだ。
僕は手ぶらだったが、美希ちゃんは、こっそり家から持ち出したお父さんのデジカメを首から下げ、右手にはお兄さんのものだという金属バットを持っていた。
絶対に人喰い蜘蛛などいないと確信している僕より、もしかしたらいるかもと疑っている美希ちゃんの方が、度胸があるわけだ。
反対側へ抜ける細道をゆっくり歩いてみようじゃないかということになった。
ちょうど半分くらい来たかな、というあたりで、妙なものが目に入った。道の両側は草や小さな木がまばらに生えているばかりなのだが、その向こうの低い雑木が密集している中に、直径にして一メートルくらいの丸い穴があいている。
「あんなのあったかな」と僕。
「知らない。なかったの?」と美希ちゃん。「もしかしてさ。蜘蛛の巣の入口じゃないかしら」
「そうだとすれば、相当大きな蜘蛛だよ」僕は笑った。
「のぞいて、中を見てみようよ」美希ちゃんは、準備運動よろしく、金属バットを振りながら言う。
「馬鹿馬鹿しい。そんな大きな蜘蛛なんて・・・」
僕が言い終わる前に、美希ちゃんは穴に向かって歩き出していた。
「どう?何もいないだろ」
「いないねぇ」美希ちゃんはしゃがんで穴をのぞき込みながら、僕の方を見ずに手招きする。「でも、変だよ。奥の方が明るい」
「どっかへ抜けてるんじゃないか」
「明るい」という美希ちゃんの言葉に元気づいた僕は、穴の入口まで歩いた。
のぞいてみる、中は空洞上ではあるが、地面を除きびっしりと灌木が生い茂っている。先の方で緩くカーブしているようで、その向こうは見通せない。美希ちゃんの言うとおり、その先のあたりから柔らかな光が差し込んでいる。
「先に行って。ついていくから」
美希ちゃんは、もう穴に入ると決めたようだ。
何で僕が先なんだとは思ったが、ワンピースの美希ちゃんとしては、四つん這いで僕の前に行くことに、女の子らしい恥じらいがあったのかも知れない。
空洞の中は、蒸し暑かった。天井に当たる部分から、ポタリ、ポタリと水滴が落ちてくる。なるほど雫の森か。
カーブの曲がり初めまでは十メートル以上あるように思えた。
カーブの手前から、奥から差してくる光で周囲はすっかり明るくなり、水滴も落ちてこない。急に温度が下がったようだ。微かではあるが、爽やかな風さえ感じられた。カーブを曲がれば数メートルもなく、空洞は終わっていた。
穴から這い出して、腰を伸ばし、周囲を見る。・・・ここは何だ?
「はあぁぁぁ・・・」後から穴を出た美希ちゃんも、膝に付いた葉っぱの屑も払わず立ちあがり、声を上げた。
そこは周囲を濃い緑の木々で囲まれた・・・広場だった。くるぶしくらいまでの、柔らかい草が一面を覆っている。
広場の真ん中あたりに、腰掛けられそうな石が五つ六つ集まってある以外、何もない。
「きれいだね、ここ」
「ああ、気持ちいいな。涼しいし」
「あそこの・・・石の所へ行ってみようよ」美希ちゃんはもう歩き出しながら言う。
石にも汚れた所はなく、腰掛けるにはちょうどいい。
腰掛けて周囲を見渡すと、僕たちが通ってきた空洞の出口以外、低い灌木がぐるりと広場を一周していて、その後ろには大きな木々が茂っている。
「あの辺りだな」僕は適当な所を指さす。「あの辺りから。毛むくじゃらな長い脚の人喰い蜘蛛が、ガサガサッと出てくるんだよ」
美希ちゃんは声を上げて笑った。
「もう、ちっとも怖くないよぉ。こんな明るくてきれいなところに、そんな化け物がいるはずないよぉ」
美希ちゃんはデジカメと金属バットを、大急ぎで石の上に置いて駆け出した。
しかし、どうも変だ。外から見た雫の森の大きさから、こんな広場があるなんて不自然だ。それに、気温も湿度も、森の中とは大違い。なんて爽やかなんだ。わずかな距離や位置の違いでこんなに変わるんだろうか?

美希ちゃんは、風に吹かれ飛ぶ花びらのように、広場のあちらこちらをスキップするようにして駆け回った。
僕は石に腰掛けてそんな美希ちゃんを目で追っていた。
可愛いな、美希ちゃんは・・・幸福を感じる夢のような時間は、たちまちに過ぎていった。
次の日、美希ちゃんは来なかった。その次の日も、その翌日も。
隣と言っても郊外の町であり、美希ちゃんの家はかなり離れている。よほど僕の方から行ってみようと思ったが、年下の女の子である。僕から遊びに行くのは気が引けた。
しかし、五日経っても美希ちゃんは現れない。病気なのかも知れない。
六日目の朝、やはり美希ちゃんは姿を見せず、夏休みももうすぐ終わろうとしている。
あそこかも・・・理由はなかったが、もしかするとあの広場に・・・なぜかそんな気がして、僕は一人で雫の森へ行ってみた。
まだ朝のうちで、真夏のお日様もそれほど厳しくはなかった。
森の中は人気もなく静かで、細い道の中程まで来ると、茂みの中の穴はあの日と変わらなかった。
一度通った穴であり、今度はためらわず入っていくことができた。やはりポタリ、ポタリと落ちてくる雫が、四つん這いで進む僕の首筋や腕を濡らす。
向こう側へ出ると、例の緑の広場が待っていた。
・・・と?
「美希ちゃん?」美希ちゃんだ。
中央の石の少し向こうに、青いワンピースの後ろ姿を見せているのは美希ちゃんに違いない。やっぱり、ここへ来ていたんだ。
僕が駆け寄ろうとする途中で、美希ちゃんがゆっくりとこっちを向いた。やっぱり美希ちゃんだ。
でも、僕の脚は止まってしまった。美希ちゃんの表情は今まで見たこともないくらい暗く、そして透き通るように白いその顔色・・・。
「どうしたんだ。美希ちゃん・・・」
「・・・蜘蛛だよ。人喰い蜘蛛は・・・いたんだよ」
美希ちゃんの両目から涙がこぼれ落ちた。白い・・・涙?
半透明な白い涙は、ゆっくりと美希ちゃんの両頬に広がっていく。
「こんなところへ、来ちゃいけなかったんだよ」美希ちゃんがかすれた声で言うと、その唇の表面が裂け、そこからも白い液のようなものが滴り出た。
もっと何か言おうとしたのか、美希ちゃんが少し口を開くと、口の中も白いものでいっぱいだった。その白いものは、最初は糸を引くように、すぐにだらだらと美希ちゃんの口からしたたり落ちた。
「ど、どうしたんだ」駆け寄って思わず美希ちゃんの肩に手を置く。僕の指は、ワンピース越しにズブズブと美希ちゃんの肩に沈み込んだ。
熟れすぎた柿の実に触れるような異様な感触。
驚いて手を引いて見てみると、僕の指にも白い液のようなものが付いていた。そしてそれは微かに動いていた。
目を凝らすと・・・それは一つ一つは半ミリにも満たない小さな半透明の白い点の集まりで、それぞれに細い脚のようなものが・・・蜘蛛だ。小さな無数の蜘蛛の集団だ。
細い多くの脚をそれぞれにせわしなく蠢かせながら、それらは一つの流れとなって僕の手に広がり、腕を這い上ってくる。
僕は悲鳴を上げて手を強く振ってそれらを振り払おうとした。
同時に目をあげて美希ちゃんを見ると、美希ちゃんは背が半分くらいになっている。両足が地面にめり込んだように短くなり、地面との接点には、一部は盛り上がるようにして、白いものが草の間をわらわらと広がっていく。
両腕は抜け落ちたように足元に転がり、付け根から白いものが溢れ出すにつれ、萎んでいく。そして、皮膚だろう、黄色い薄い膜のようなものが吹く風にゆらゆらとなびいている。
見る見るうちに、お腹も胸も溶けるように消えていき、動く白い液体に変わっていく。青いワンピースは脱ぎ捨てられたようにくずおれ、その上に美希ちゃんの首だけが乗っかっているようになった。
その首からは、目と言わず、鼻と言わず、口と言わず、白いものが溢れ出てくる。
僕は気が遠くなり、その場に横倒しに倒れてしまった。
「み、美希ちゃん・・・」答はない。
そして薄れていく僕の意識と視界の中を、何か環のようになった黒いものが、折からの風に風に吹かれて転がっていった。
美希ちゃんの・・・髪の毛?
意識は遠のき、僕は底知れぬ闇の中に落ちていった。
僕は雫の森の入口のあたりに倒れているところを発見され、病院に運ばれたそうだ。怪我はなく一週間ほど病院にいて退院した。
退院すると警察や何かの専門家、両親や学校の先生の質問攻めが待っていた。
特に警察の質問はしつこかった。それは、美希ちゃんが行方不明になっていたからだ。
僕はありのままを答えた。誰も信じてくれなかった。
警察はすぐ森に行ったが、茂みの穴も広場もなかったという。しばらくおいて僕も警官に連れられて、森に行ったが、やはり穴も広場もなかった。
それが、なぜか不思議ではなく当然のような気がした。

僕は大学を中退して始めた情報関連の起業があたり、お金には不自由しない。両親とも疎遠になり友だちもなく、大都会の高層マンションの最上階に一人で暮らしている。
天井までの大きな湾曲したガラス窓の向こうに東京湾の夜景が見える。海を取り巻く街の灯りが、時に瞬きながら星屑のように海に浮かんでいる。
美希ちゃんは見つからなかった。でも、僕には美希ちゃんがどこにいるか判っているのだ。
美希ちゃん・・・待たせたね。もうすぐだよ。また会えるよ。
僕の肘の内側、前腕の皮膚が酷く薄くなり透き通るようだ。
その皮膚の下、微かな陰影をもって、さざ波のように繰り返し蠢くものが何か、僕は知っている。(完)
第8話 我が愛しの猫又
深更十二時を過ぎて、二十年来飼ってきた雌猫のサキが、突然に猫又へと変化(へんげ)した。
体の大きさは変わらない、キジトラの毛色も、琥珀色の目も。しかし、尻尾は付け根から二つに別れ、にゃぁと鳴けば口は耳まで裂けた。
舌は色が真っ赤になり、これも二本に別れ互いに絡み合う。時々十センチほど出したりするが、すぐに引っ込めるので、全体がどのくらいの長さかはわからない。
尻尾は、また一本に戻ったり、急に二本になったりする。寝ているときはいつも一本で、何かに反応し覚醒したときに別れるようだが、よくはわからない。
尻尾が一本の状態で、口を開けさえしなければ、見かけは今までのサキと変わらない。
外観だけでなく、変化後の普段の動きも、年老いた後のサキと同じ、ほとんどソファーベッドで丸まって寝ている。
習性で変わったのは、餌も水も摂らなくなり、その結果としてか、尿やフンもしないことだ。
時々起き出して室内を少し歩き回っては、たまに私の膝に乗り、ゴロゴロと喉を鳴らし、またソファーに戻って寝る。
おかしい。猫又というのは、世にも恐ろしい妖怪のはず。体は大きな犬ほどもあり、人を喰らう、とり殺すというのが定説だ。
猫又ではないのではないか?という疑念もないではない。
私は普通の老いた猫から変化したのを知っているから猫又に違いないと思うだけで、初めて見れば、珍種か奇形の猫と思う人もいるだろう。
当初、この姿を画像や動画にしてSNSに流せば大炎上、何らかの形で収益に繋がるのではないかと考えた。
下手をすると、猫に外科的手術を加えて変形させた動物虐待の疑いで立件されるリスクもあったが、表に出さなかったのには、別の理由の方が大きかった。
難しい理由ではない。私はサキが好きだったのだ。
物言わぬサキが、私を好きだったかどうかは定かでない。しかし、何と言っても二十年以上に及ぶ同居生活。その内、十八年ほどは一人と一匹暮らしである。
残りのわずかな年数は、別れた妻も居たのだが、サキはまったく懐いていなかった。
これだけの年数、狭い家にいつも一緒に居ると、別種の生き物とはいえ、ある種の意思疎通が可能になったような気がする。
そんなサキを見世物にするのは忍びなかった。
次に考えたのは、定説、伝承のとおり、猫又が恐るべき妖力を持っているのなら、それをうまく使えば、のさばり返る世間の屑ども、なかでも不倫を重ねたあげく家を出た元妻に、報復の鉄槌を下すことができるのではないかということだ。
猫又サキなら、私の怨念を晴らすことに妖力の出し惜しみはしないだろう。
また、どんなに強くて荒っぽい奴でも、人間なら、猫又の敵ではないはずだ。怖い物なしだ。
しかし、終日ソファーで、のんびりと居眠りする姿を見て、それを期待するのは無理に思えた。
変化後、一ヶ月ほどは、老描サキと変わらぬ猫又サキと、平穏な暮らしが続いていった。
しかし、転機となる事件は間もなく起こったのだ。
深夜である。何時頃かは判らなかったが、おそらく午前二時か三時頃。
普段から眠りの浅い私の耳に、微かな音、足音が聞こえた。サキではない。人間のものだ。
直感的に、泥棒が侵入したと思った。どうせ金などない。死んだふりが一番、早く出て行ってくれと願いながら寝たふりを続ける。
侵入者は家中歩き回って、いろいろと物色しているようだったが、ないものを見つけることはできない。
ついに部屋の灯りを点けて、「おい。おまえ」と声を上げ、ベッドの私に馬乗りになってきた。
「わかるか?強盗だ。金、出す、よい。出さない、だめ、殺す」目出し帽に上下黒づくめの男が、変な日本語で言いながら、ナイフを喉元に突きつけて来た。
「だ、出したいが・・・ないんだ」私の声はかすれた。
「死ぬ。いいのか。金、出せ」
絶体絶命か。・・・そう覚悟した時である。
男の背後から黒い影が、音もなく立ち上がった。
一瞬、賊が二人いたのかと思ったが、そうではなかった。
影は、毛むくじゃらの焦げ茶色の両手らしいものを、男の肩にかけて、私から一気に引き剥がした。
私は、悲鳴を上げてベッドから転がり降り、壁際に身を寄せた。
男が追ってくるかと思ったが、影に抱き取られて身動きが取れないようだ。どこの邦のものかも知れない、わけの分からない言葉で何かわめくが、影は離れない。
影の頭部が私の方に向けられた。キジトラの猫の顔。刺すような鋭い眼光の目は琥珀色。
サキ?猫又のサキだ。
しかし、大きい。大柄な人間の男くらいはある。
男は何とか対面に向きを変えて、絶叫しながらナイフで猫又を突きまくった。
猫又は、突かれても血が流れるわけでもなく意に介さない。向き合って抱き合ったような格好になると、男を抱えたままベッドを降り、なおも暴れる男を隣の物置部屋に引きずって行く。
ベッドを汚すと叱られる猫のサキの記憶が残っているのかも知れない。
物置部屋に男を引きずり込んだ猫又は、腰砕けになった男の背後へ身を移し、片手で男の首を横にねじ曲げる。
目出しマスクがずれて男の首筋が露わになる。
その首筋に猫又は噛みつくでもなく、まるでキスするかのように口を付け、すぐに離した。男の首筋に三センチほどの裂け目のような傷ができたのが見てとれた。
猫又も、その傷を確認するように一瞥すると、クワッとばかりに口を開く。耳まで裂けた血のような色の口から、これも真っ赤な二本に裂けた舌が、ぬるりと現れる。
絡み合う二匹の細い蛇のように、くねる舌が、絶叫する男の顔を這い、その先端が、首筋の傷に向かっていく。
そして舌先が傷口に侵入した。
男は激しく苦悶した。「おう、おう」と言うような声をあげ、両腕を振り回すが、空を切るばかり。猫又は離れない。
顔面の皮膚が怒張した血管のように、膨らんだり戻ったりする。猫又の舌が皮膚の下を這いずっているようだ。
目や鼻の穴から、時々、真っ赤な舌先の先端がのぞく。
身もだえこそ続いていたが、男の声は段々と小さく弱くなっていった。
やがて、舌が首から下の体内に入っていったのだろう。男は、口から血泡を吹き、手足を断末魔の大蜘蛛のように、大きく痙攣させる。
めくれ上がったTシャツから、露わになったタトゥーだらけの腹の皮に、大きなミミズ腫れの様な隆起が浮かんでは消える。
男は静かになった。死んだのだろうか。
猫又は首をぶるんと振る。首筋の傷口から長い舌がずるずると引き上げられ、口の中に納まっていく。
次に猫又は、抱えていた男を床に放り出し、口を大きく開けると、男の右の二の腕に喰らいついた。
そして、顔を左右に動かし、その肉をそぎ取るように、貪り喰いはじめた。
心臓は止まっているのかも知れないが、まだ、血管は生きているのだろう。血飛沫(ちしぶき)が舞い、血の色とは対照的な白い骨が露出してくる。
何とも名状しがたいおぞましい光景に、私はベッドからシーツを引っ張って、頭から引っ被った。
とても見ていられるものじゃなかったのだ。
「た、大変なことになった。これは殺人事件だ」
引っ被ったシーツの下で私は震えながら考える。
「警察に通報しなければ。だが、まず疑われるのは俺だ。過剰防衛もいいとこ、殺してしまっては重大な責任を問われる。猫又がやったんだ、なんて誰が信じるものか。百歩譲って信じてくれても、今度はサキだ。俺を守るためにやったことで、サキは捕獲され殺されてしまうだろう」
猫又は、時折、シューッという息を吐くような音を発するものの、終始無言。
煩悶する私の耳には、猫又が、男の軟骨を囓っているのだろう、コリコリ、コリコリという音が断続的に入ってくる。時々は、ずずーっと何か柔らかい物をすするような音。内臓を吸い込んでいるのか?
私は震え上がって歯の根も合わなかった。
いくら本当はサキなんだと思っても、相手は私を殺したかも知れない強盗犯であっても、猫又が人を喰っているのだ。
しかし、やがて、不気味な音は止み、さらにやや間を置いて、何かがシーツ越しに私の足を踏んできた。
恐る恐る頭に被ったシーツを除けてみると、サキだった。巨大な猫又のサキではなく、昔どおりの大きさのサキだった。
サキはそれ以上、私に構うことはなく、音もなく歩いて、ソファーに飛び乗り、何事もなかったかのように、背を丸め、居眠りを始めそうな気配だった。
物置部屋の惨状を見るのは怖かった。血みどろの惨殺屍体など見たくない。しかし、見ないわけにはいかないだろう。
すっかり腰が抜けたようになっていた体を何とか奮い立たせ、目をつむったまま物置部屋に入り、恐る恐る目を開けてみる。
何だこれは?
床の上には、男の着ていた服や目出しマスク、靴などが散らばっている。手にしていたナイフ、腕時計もその周辺に見えた。
しかし、屍体がない。あれほど流れていた血の跡も。
私は、しばし、呆然としていたが、意を決して床に触ってみた。湿り気はない。
次にしゃがんで顔を背けたまま、床の匂いを嗅いでみた。ほこり臭いが、血のような臭いではない。
男の残した衣類にも、まったく血や体液の跡はなかった。
あれは悪い夢だったのか・・・私の妄想、幻覚だったのか・・・では、この残された衣類やナイフは何なんだ?
猫又は男の身体だけを喰ったのか?
サキに聞いても答えるはずはない。しかし、だんだん、そうだという確信が持ててきた。
そしてこれなら、残された物さえ始末すれば、この惨劇はなかったことになると思えてきた。
窓の外が白み始め、朝の気配が近づいていた。
今日は、ゴミの収集日のはず。私はゴミ袋を持ち出し、男の残した物を、手当たり次第、放り込んでいった。ナイフと腕時計には価値がありそうで、一瞬ためらいがあったが、それも放り込んだ。
目出しマスクをつまみ上げたとき、何か小さい塊がいくつか転がり落ちた。よく見ると、歯に被した虫歯治療用の金属冠のようだ。それも、マスク越しにつまんでゴミ袋に入れる。
間違いない、猫又は、肉体だけを喰ったのだ。生命と、生命が宿る肉体だけが、猫又の餌となるのだ。
大慌てでゴミ袋を集積所に出して、息を切らして戻って来ると、部屋は何事もなかったように静かで、サキはソファーで居眠りをしている。
私は一気に気が抜け、くずおれるようにサキの横に腰を下ろした。
呼吸が少しずつ整ってくると、ある考えが浮かんできた。
いける・・・!これなら、猫又の妖力で、証拠を残さず、屑どもを抹殺できる!
屍体が残らないのだ。完全犯罪という言葉まで脳裏をかすめた。
昨夜はたまたまの私の危機に、猫又が立ち向かって守ってくれたわけだが、我が愛しのサキなら、私の怨念も汲み取ってくれるはずだ。
あの不倫腐れ元妻を何とかおびき出して・・・間男共々・・・。
女の連絡先を調べようと思ったが、その前にもう一度試してみるのもよいだろうと考え直し、スマホで、よろしくない付き合いの知人に電話する。
「あ、俺だけど。やっと金が用意できたよ。そう、一括で全額返す。ずいぶん遅れてすまなかったね。もちろん利子もだよ。うん、それがさ、腰を痛めちゃってさ、歩けないんだ。悪いけど取りに来てくれないかな。もちろん、交通費も払うから。タクシーでいいからさ。今から?いいとも。待ってるよ」
返済金ができたのが嘘だと判れば、借金取りは私に暴行しようとするだろう。いくらでもこい。そうなれば、こっちには猫又が・・・これで、借金取りもいなくなる。借金もなくなるのと同然だ。
それが上手く運んだら、その次は腐れ元妻だ。
昨夜の強盗は、死んでから猫又に喰われたが、あの外道女には生きたまま喰われてもらおう。
大事な臓器には傷を付けず、最後まで生きたまま、内臓と骨だけにしてやる。殺すのはそのあとだ。
やってくれるか?
私は居眠りしているサキの頭を、そんな思いを込めて撫でてみた。
サキは物憂げに顔を上げ、しばらく私の目を見ていたが、すぐに、長い真っ赤な二本の舌を、文字通り舌なめずりするように大きく出して、その耳まで裂けた口で、にゃあと鳴いてみせた。
(完)
体の大きさは変わらない、キジトラの毛色も、琥珀色の目も。しかし、尻尾は付け根から二つに別れ、にゃぁと鳴けば口は耳まで裂けた。
舌は色が真っ赤になり、これも二本に別れ互いに絡み合う。時々十センチほど出したりするが、すぐに引っ込めるので、全体がどのくらいの長さかはわからない。
尻尾は、また一本に戻ったり、急に二本になったりする。寝ているときはいつも一本で、何かに反応し覚醒したときに別れるようだが、よくはわからない。
尻尾が一本の状態で、口を開けさえしなければ、見かけは今までのサキと変わらない。
外観だけでなく、変化後の普段の動きも、年老いた後のサキと同じ、ほとんどソファーベッドで丸まって寝ている。

習性で変わったのは、餌も水も摂らなくなり、その結果としてか、尿やフンもしないことだ。
時々起き出して室内を少し歩き回っては、たまに私の膝に乗り、ゴロゴロと喉を鳴らし、またソファーに戻って寝る。
おかしい。猫又というのは、世にも恐ろしい妖怪のはず。体は大きな犬ほどもあり、人を喰らう、とり殺すというのが定説だ。
猫又ではないのではないか?という疑念もないではない。
私は普通の老いた猫から変化したのを知っているから猫又に違いないと思うだけで、初めて見れば、珍種か奇形の猫と思う人もいるだろう。
当初、この姿を画像や動画にしてSNSに流せば大炎上、何らかの形で収益に繋がるのではないかと考えた。
下手をすると、猫に外科的手術を加えて変形させた動物虐待の疑いで立件されるリスクもあったが、表に出さなかったのには、別の理由の方が大きかった。
難しい理由ではない。私はサキが好きだったのだ。
物言わぬサキが、私を好きだったかどうかは定かでない。しかし、何と言っても二十年以上に及ぶ同居生活。その内、十八年ほどは一人と一匹暮らしである。
残りのわずかな年数は、別れた妻も居たのだが、サキはまったく懐いていなかった。
これだけの年数、狭い家にいつも一緒に居ると、別種の生き物とはいえ、ある種の意思疎通が可能になったような気がする。
そんなサキを見世物にするのは忍びなかった。
次に考えたのは、定説、伝承のとおり、猫又が恐るべき妖力を持っているのなら、それをうまく使えば、のさばり返る世間の屑ども、なかでも不倫を重ねたあげく家を出た元妻に、報復の鉄槌を下すことができるのではないかということだ。
猫又サキなら、私の怨念を晴らすことに妖力の出し惜しみはしないだろう。
また、どんなに強くて荒っぽい奴でも、人間なら、猫又の敵ではないはずだ。怖い物なしだ。
しかし、終日ソファーで、のんびりと居眠りする姿を見て、それを期待するのは無理に思えた。
変化後、一ヶ月ほどは、老描サキと変わらぬ猫又サキと、平穏な暮らしが続いていった。
しかし、転機となる事件は間もなく起こったのだ。
深夜である。何時頃かは判らなかったが、おそらく午前二時か三時頃。
普段から眠りの浅い私の耳に、微かな音、足音が聞こえた。サキではない。人間のものだ。
直感的に、泥棒が侵入したと思った。どうせ金などない。死んだふりが一番、早く出て行ってくれと願いながら寝たふりを続ける。
侵入者は家中歩き回って、いろいろと物色しているようだったが、ないものを見つけることはできない。
ついに部屋の灯りを点けて、「おい。おまえ」と声を上げ、ベッドの私に馬乗りになってきた。
「わかるか?強盗だ。金、出す、よい。出さない、だめ、殺す」目出し帽に上下黒づくめの男が、変な日本語で言いながら、ナイフを喉元に突きつけて来た。
「だ、出したいが・・・ないんだ」私の声はかすれた。
「死ぬ。いいのか。金、出せ」
絶体絶命か。・・・そう覚悟した時である。
男の背後から黒い影が、音もなく立ち上がった。

影は、毛むくじゃらの焦げ茶色の両手らしいものを、男の肩にかけて、私から一気に引き剥がした。
私は、悲鳴を上げてベッドから転がり降り、壁際に身を寄せた。
男が追ってくるかと思ったが、影に抱き取られて身動きが取れないようだ。どこの邦のものかも知れない、わけの分からない言葉で何かわめくが、影は離れない。
影の頭部が私の方に向けられた。キジトラの猫の顔。刺すような鋭い眼光の目は琥珀色。
サキ?猫又のサキだ。
しかし、大きい。大柄な人間の男くらいはある。
男は何とか対面に向きを変えて、絶叫しながらナイフで猫又を突きまくった。
猫又は、突かれても血が流れるわけでもなく意に介さない。向き合って抱き合ったような格好になると、男を抱えたままベッドを降り、なおも暴れる男を隣の物置部屋に引きずって行く。
ベッドを汚すと叱られる猫のサキの記憶が残っているのかも知れない。
物置部屋に男を引きずり込んだ猫又は、腰砕けになった男の背後へ身を移し、片手で男の首を横にねじ曲げる。
目出しマスクがずれて男の首筋が露わになる。
その首筋に猫又は噛みつくでもなく、まるでキスするかのように口を付け、すぐに離した。男の首筋に三センチほどの裂け目のような傷ができたのが見てとれた。
猫又も、その傷を確認するように一瞥すると、クワッとばかりに口を開く。耳まで裂けた血のような色の口から、これも真っ赤な二本に裂けた舌が、ぬるりと現れる。
絡み合う二匹の細い蛇のように、くねる舌が、絶叫する男の顔を這い、その先端が、首筋の傷に向かっていく。
そして舌先が傷口に侵入した。
男は激しく苦悶した。「おう、おう」と言うような声をあげ、両腕を振り回すが、空を切るばかり。猫又は離れない。
顔面の皮膚が怒張した血管のように、膨らんだり戻ったりする。猫又の舌が皮膚の下を這いずっているようだ。
目や鼻の穴から、時々、真っ赤な舌先の先端がのぞく。
身もだえこそ続いていたが、男の声は段々と小さく弱くなっていった。
やがて、舌が首から下の体内に入っていったのだろう。男は、口から血泡を吹き、手足を断末魔の大蜘蛛のように、大きく痙攣させる。
めくれ上がったTシャツから、露わになったタトゥーだらけの腹の皮に、大きなミミズ腫れの様な隆起が浮かんでは消える。
男は静かになった。死んだのだろうか。
猫又は首をぶるんと振る。首筋の傷口から長い舌がずるずると引き上げられ、口の中に納まっていく。
次に猫又は、抱えていた男を床に放り出し、口を大きく開けると、男の右の二の腕に喰らいついた。
そして、顔を左右に動かし、その肉をそぎ取るように、貪り喰いはじめた。
心臓は止まっているのかも知れないが、まだ、血管は生きているのだろう。血飛沫(ちしぶき)が舞い、血の色とは対照的な白い骨が露出してくる。
何とも名状しがたいおぞましい光景に、私はベッドからシーツを引っ張って、頭から引っ被った。
とても見ていられるものじゃなかったのだ。
「た、大変なことになった。これは殺人事件だ」
引っ被ったシーツの下で私は震えながら考える。
「警察に通報しなければ。だが、まず疑われるのは俺だ。過剰防衛もいいとこ、殺してしまっては重大な責任を問われる。猫又がやったんだ、なんて誰が信じるものか。百歩譲って信じてくれても、今度はサキだ。俺を守るためにやったことで、サキは捕獲され殺されてしまうだろう」
猫又は、時折、シューッという息を吐くような音を発するものの、終始無言。
煩悶する私の耳には、猫又が、男の軟骨を囓っているのだろう、コリコリ、コリコリという音が断続的に入ってくる。時々は、ずずーっと何か柔らかい物をすするような音。内臓を吸い込んでいるのか?
私は震え上がって歯の根も合わなかった。
いくら本当はサキなんだと思っても、相手は私を殺したかも知れない強盗犯であっても、猫又が人を喰っているのだ。
しかし、やがて、不気味な音は止み、さらにやや間を置いて、何かがシーツ越しに私の足を踏んできた。
恐る恐る頭に被ったシーツを除けてみると、サキだった。巨大な猫又のサキではなく、昔どおりの大きさのサキだった。
サキはそれ以上、私に構うことはなく、音もなく歩いて、ソファーに飛び乗り、何事もなかったかのように、背を丸め、居眠りを始めそうな気配だった。
物置部屋の惨状を見るのは怖かった。血みどろの惨殺屍体など見たくない。しかし、見ないわけにはいかないだろう。
すっかり腰が抜けたようになっていた体を何とか奮い立たせ、目をつむったまま物置部屋に入り、恐る恐る目を開けてみる。
何だこれは?
床の上には、男の着ていた服や目出しマスク、靴などが散らばっている。手にしていたナイフ、腕時計もその周辺に見えた。
しかし、屍体がない。あれほど流れていた血の跡も。

私は、しばし、呆然としていたが、意を決して床に触ってみた。湿り気はない。
次にしゃがんで顔を背けたまま、床の匂いを嗅いでみた。ほこり臭いが、血のような臭いではない。
男の残した衣類にも、まったく血や体液の跡はなかった。
あれは悪い夢だったのか・・・私の妄想、幻覚だったのか・・・では、この残された衣類やナイフは何なんだ?
猫又は男の身体だけを喰ったのか?
サキに聞いても答えるはずはない。しかし、だんだん、そうだという確信が持ててきた。
そしてこれなら、残された物さえ始末すれば、この惨劇はなかったことになると思えてきた。
窓の外が白み始め、朝の気配が近づいていた。
今日は、ゴミの収集日のはず。私はゴミ袋を持ち出し、男の残した物を、手当たり次第、放り込んでいった。ナイフと腕時計には価値がありそうで、一瞬ためらいがあったが、それも放り込んだ。
目出しマスクをつまみ上げたとき、何か小さい塊がいくつか転がり落ちた。よく見ると、歯に被した虫歯治療用の金属冠のようだ。それも、マスク越しにつまんでゴミ袋に入れる。
間違いない、猫又は、肉体だけを喰ったのだ。生命と、生命が宿る肉体だけが、猫又の餌となるのだ。
大慌てでゴミ袋を集積所に出して、息を切らして戻って来ると、部屋は何事もなかったように静かで、サキはソファーで居眠りをしている。
私は一気に気が抜け、くずおれるようにサキの横に腰を下ろした。
呼吸が少しずつ整ってくると、ある考えが浮かんできた。
いける・・・!これなら、猫又の妖力で、証拠を残さず、屑どもを抹殺できる!
屍体が残らないのだ。完全犯罪という言葉まで脳裏をかすめた。
昨夜はたまたまの私の危機に、猫又が立ち向かって守ってくれたわけだが、我が愛しのサキなら、私の怨念も汲み取ってくれるはずだ。
あの不倫腐れ元妻を何とかおびき出して・・・間男共々・・・。
女の連絡先を調べようと思ったが、その前にもう一度試してみるのもよいだろうと考え直し、スマホで、よろしくない付き合いの知人に電話する。
「あ、俺だけど。やっと金が用意できたよ。そう、一括で全額返す。ずいぶん遅れてすまなかったね。もちろん利子もだよ。うん、それがさ、腰を痛めちゃってさ、歩けないんだ。悪いけど取りに来てくれないかな。もちろん、交通費も払うから。タクシーでいいからさ。今から?いいとも。待ってるよ」
返済金ができたのが嘘だと判れば、借金取りは私に暴行しようとするだろう。いくらでもこい。そうなれば、こっちには猫又が・・・これで、借金取りもいなくなる。借金もなくなるのと同然だ。

昨夜の強盗は、死んでから猫又に喰われたが、あの外道女には生きたまま喰われてもらおう。
大事な臓器には傷を付けず、最後まで生きたまま、内臓と骨だけにしてやる。殺すのはそのあとだ。
やってくれるか?
私は居眠りしているサキの頭を、そんな思いを込めて撫でてみた。
サキは物憂げに顔を上げ、しばらく私の目を見ていたが、すぐに、長い真っ赤な二本の舌を、文字通り舌なめずりするように大きく出して、その耳まで裂けた口で、にゃあと鳴いてみせた。
(完)
第7話 事故物件
今の時代なら、たぶん建築確認が下りないだろう、狭い敷地に無理やりねじ込んだような、古い、学生、単身者向けアパート。
三階建ての各階に四室あって、俺は二階の端、二百四号室を借りている。何といっても家賃が安いのと、地下鉄の駅や商店街に近い。利便性とかのけっこう良いところで、当面ここにいるつもりだ。地下鉄と市営バスで、大学まで三十分足らずというのも魅力である。
それがどうだろう、夏休みの終わり頃だから、もう二ヶ月ほど前から、退去者がやたらと多くなり、ほとんど満室だったのが、各階に一人ずつとなってしまった。二階は俺一人だ。
二、三人新たな入居者はあったみたいだが、すぐに退去してしまったようだ。
これは何かある。俺が知らないだけで、何かあるなと、思わざるを得ない。
そんなある日、一階への外階段を降りると、不動産屋の営業と思われる男と、入居を検討中らしい学生風の男が、一階の一室の前で何やらやりとりをしていた。
俺は、階段を降りたところにある足洗い場で、靴を洗う振りをして聞き耳を立てた。
営業は「事故物件じゃない」と繰り返していた。「事故物件は事故のあった部屋のことで、このアパート全体じゃない。この部屋は関係ない」と説得しているようだ。それでも、学生風の男は決めかねているようだった。
事故物件!なるほど、そうか!何か事件があったんだ!自殺?殺人?変死体?
俄然、何があったのか知りたくなった。しかし、二ヶ月くらいも前となると、新聞記事を探すのもやっかいだ。もっと前かも知れないし。
その夜、俺以外には二人しかいない入居者に聞いてみようと思い立った。
一階百三号室の学生とは少し立ち話をしたことがあり、おとなしそうな印象だったので、まず行ってみたが、灯りも付いておらず、留守のようだった。
仕方がないので、訳を話せばと思い、三階の三百一号室へ。灯りは点いていた。
二三度姿を見かけた、随分体格の良い、短髪のやつで、たぶん体育会系だろう。話したことはなく、当然、性格はまったく知らない。おっかないやつだったら、早々に引き上げる気でドアを軽くノックする。反応がない。
寝ているのかも知れない。ヘッドフォンで音楽を聴いているのかも。
ちょっと間を置いて、強めにノックしてみたが、同じだった。
灯りを点けたまま外出しているのかも知れない。急ぐことでもなし、明日出直そうと決め退散することにした。
翌朝は明け方からうるさかった。三階から外階段を何度も上り下りしているような音がする。流し台の上の窓を少し開け覗いてみると、数人の男たちが荷物を運び出している。男たちの一人は、三階の住人、昨夜会えなかった体育会系らしきやつだ。
ひどく慌てた様子で、ろくに閉じてもいない段ボール箱などを運びながら、大きな声で話しているのが聞こえた。
「絶対、嘘じゃねぇったら。ドアの隙間から見えたんだ」
「なんでそれが幽霊だと判るんだよ」
「言ったじゃねぇか。体が透き通って向こう側が見えてたんだよ。首から首つりの縄を垂れ下げて」
「酔ってたんじゃないのか?」
「飲んでねぇよ。今までに引っ越したやつらは、廊下を歩いてるのを見ただけなんだ。けど、昨夜は違う、俺の部屋のドアを何度も叩きやがったんだ。いくら俺でも、こんなとこ、もう、居られやしないよ」
やがて車のエンジン音がして、去って行ったのだろう、声もしなくなった。
ふう。部屋は判らないが、あったのは首つりか。そして、そいつが化けて出ると。
それが本当なら、みんなが逃げ出すのも解るが、この令和の時代に、死霊が夜毎にさまよい歩くなど、荒唐無稽の笑止千万。
だいたい、昨夜、ドアをノックしたのはこの俺だ。でかい図体をしながら、ビビっているから、死霊が来たとでも思い込んで、幻覚を見たのだろう。
そもそも、長く住んでる俺が知らないと言うことは、首つり事件自体が、いい加減な噂話なのかも知れない。
今夜にでも、まともそうな一階の学生に聞いてみよう。
それにしても・・・困ったな。首の周りが痛痒くてかなわない。いつ付いたものか、首をひとまわりする傷がただれて、もう二ヶ月以上にもなるのに、全然治りゃしない。
なんなんだろう、この変な傷は?
(完)
三階建ての各階に四室あって、俺は二階の端、二百四号室を借りている。何といっても家賃が安いのと、地下鉄の駅や商店街に近い。利便性とかのけっこう良いところで、当面ここにいるつもりだ。地下鉄と市営バスで、大学まで三十分足らずというのも魅力である。
それがどうだろう、夏休みの終わり頃だから、もう二ヶ月ほど前から、退去者がやたらと多くなり、ほとんど満室だったのが、各階に一人ずつとなってしまった。二階は俺一人だ。
二、三人新たな入居者はあったみたいだが、すぐに退去してしまったようだ。
これは何かある。俺が知らないだけで、何かあるなと、思わざるを得ない。
そんなある日、一階への外階段を降りると、不動産屋の営業と思われる男と、入居を検討中らしい学生風の男が、一階の一室の前で何やらやりとりをしていた。
俺は、階段を降りたところにある足洗い場で、靴を洗う振りをして聞き耳を立てた。
営業は「事故物件じゃない」と繰り返していた。「事故物件は事故のあった部屋のことで、このアパート全体じゃない。この部屋は関係ない」と説得しているようだ。それでも、学生風の男は決めかねているようだった。
事故物件!なるほど、そうか!何か事件があったんだ!自殺?殺人?変死体?
俄然、何があったのか知りたくなった。しかし、二ヶ月くらいも前となると、新聞記事を探すのもやっかいだ。もっと前かも知れないし。
その夜、俺以外には二人しかいない入居者に聞いてみようと思い立った。
一階百三号室の学生とは少し立ち話をしたことがあり、おとなしそうな印象だったので、まず行ってみたが、灯りも付いておらず、留守のようだった。
仕方がないので、訳を話せばと思い、三階の三百一号室へ。灯りは点いていた。

二三度姿を見かけた、随分体格の良い、短髪のやつで、たぶん体育会系だろう。話したことはなく、当然、性格はまったく知らない。おっかないやつだったら、早々に引き上げる気でドアを軽くノックする。反応がない。
寝ているのかも知れない。ヘッドフォンで音楽を聴いているのかも。
ちょっと間を置いて、強めにノックしてみたが、同じだった。
灯りを点けたまま外出しているのかも知れない。急ぐことでもなし、明日出直そうと決め退散することにした。
翌朝は明け方からうるさかった。三階から外階段を何度も上り下りしているような音がする。流し台の上の窓を少し開け覗いてみると、数人の男たちが荷物を運び出している。男たちの一人は、三階の住人、昨夜会えなかった体育会系らしきやつだ。
ひどく慌てた様子で、ろくに閉じてもいない段ボール箱などを運びながら、大きな声で話しているのが聞こえた。
「絶対、嘘じゃねぇったら。ドアの隙間から見えたんだ」
「なんでそれが幽霊だと判るんだよ」
「言ったじゃねぇか。体が透き通って向こう側が見えてたんだよ。首から首つりの縄を垂れ下げて」
「酔ってたんじゃないのか?」
「飲んでねぇよ。今までに引っ越したやつらは、廊下を歩いてるのを見ただけなんだ。けど、昨夜は違う、俺の部屋のドアを何度も叩きやがったんだ。いくら俺でも、こんなとこ、もう、居られやしないよ」
やがて車のエンジン音がして、去って行ったのだろう、声もしなくなった。
ふう。部屋は判らないが、あったのは首つりか。そして、そいつが化けて出ると。
それが本当なら、みんなが逃げ出すのも解るが、この令和の時代に、死霊が夜毎にさまよい歩くなど、荒唐無稽の笑止千万。
だいたい、昨夜、ドアをノックしたのはこの俺だ。でかい図体をしながら、ビビっているから、死霊が来たとでも思い込んで、幻覚を見たのだろう。
そもそも、長く住んでる俺が知らないと言うことは、首つり事件自体が、いい加減な噂話なのかも知れない。
今夜にでも、まともそうな一階の学生に聞いてみよう。
それにしても・・・困ったな。首の周りが痛痒くてかなわない。いつ付いたものか、首をひとまわりする傷がただれて、もう二ヶ月以上にもなるのに、全然治りゃしない。
なんなんだろう、この変な傷は?
(完)
第6話 旅情
禁漁の蟹を食わせるという怪しげな料理屋の噂に振り回され、真夏の夜の温泉街をさまよい歩いた果てに、蟹には巡り会えず、汗みどろになって旅館に戻ったのは深夜も十二時に近かった。
吉見はすっかり疲れ切った様子だった。しかし、そもそも禁漁蟹の不確かな噂を聞いてきて、この小旅行に誘ったのは吉見である。
「とにかく、汗を流そう。風呂に行こうぜ」
私は、着替えの浴衣とタオルを探しながら誘ったが、吉見は畳に脚を投げ出して、壁にもたれたまま動かない。
「後にする。エアコンの風のほうがいいや。出かける前にも入ったしさ。明日にするかも」
大浴場はすでに閉まっている時間だったが、岩風呂とかいうのが終夜でやっているはずだ。
シーズンオフだからか、不景気なのか、宿泊客は極端に少ないようで、深夜とはいえ、大きな旅館にしては、ずいぶん静かである。
もしかすると客は私たちだけなのかもしれない。
私は、人気のないロビーの古びたソファで、旧式の自販機のスポーツドリンクを飲み、煙草を一本だけ吸った。
少し時間をくってしまったせいか、岩風呂に行くと、行かないと言っていたはずの吉見が、もう先に湯に浸かっていた。
浴衣を脱ぎ捨て、吉見の隣に体を沈める。

「来てくれてよかったよ。何だか薄気味悪くてさ」小さな声で吉見が言う。
「どうして?暗いからか?」
普通にしゃべったつもりだが、声は他に人気のない風呂場に響き陰に籠もって物凄い。私の声も小さくなる。
「なかなか風情があるじゃないの?旅情豊かというやつだよ。」
岩風呂は、天井まで届く大きなガラス窓があり、その向こうには富山湾の夜景が広がっている。黒い海に灯台の明かりと、遙か遠くに、漁り火だろう、いくつかの小さな揺れる灯りを浮かべている。
そして、夜景を引き立たせるためか、照明をかなり落としてあり、実際に薄暗いのだ。
もしかすると、肝心の岩風呂の岩があまり奇麗でなく、それを隠すためかも知れないが。
「なんでこんなに暗くしてあるのかね。暗いとさ、あの向こう側の岩の陰あたりに、何かいるんじゃないかと思えてきてさ。誰かが来てくれるのが待ち遠しかったよ。俺は気が小さいのかな」
「何かいるなら、明るかろうが、暗かろうが、人が来ようが来まいが、いるものはいるし、いないものならいないだけさ。で、いるというのは、例によって霊なのか?」
私は声に出して笑ってしまった。その笑い声も風呂場の中にこだまするようで、正直、不気味である。
「そうかなぁ。俺みたいに、何かの気配を感じて怖くなるということは、まったくないのかい?」
吉見は、気を悪くしたふうでもなく問い返す。
「ないな。そもそも気配というのは、何かの一部分だけが見えているというだけのことだと思うぜ。音や匂いの場合もあるだろうけどさ」
「そんなんじゃないな、全体だよ。何かの全体を感じるんだ。例えば首の後ろに、ほんのちょっとだけど、何か得体の知れない重みを感じる。まるで何かにすがりつかれているようなね。そういうことがよくあったな」
「オマエさんとこには、鏡というものはないのか?すぐに背中を映してみれば判ることじゃないか」
「そんな怖いこと、できるもんじゃないよ、そういう時は。怖いと言えばね、やっぱり何かの気配を感じてさ、自分の部屋の片隅がどうしても見られないことがあったな。家の外でもね、真っ昼間の何でもない空き地なんかに感じるものがあってね、顔を横に向けて小走りに通り過ぎたものさ」
「デジカメでも、いつも持って歩いたらどうだ?何が写るか面白いぜ。」
「ふふ」と吉見は自嘲気味に笑った。「そんなので写した写真を見る勇気があればね。いいな、迷いがない人は。たぶん死んでも迷うことはないよ。俺のような臆病者がね、生きていても迷い、死んでも迷うんだろうね」
「出るぞ。のぼせちまわぁ」私は立ち上がった。と、同時に出入口の引き戸が開く音がした。
振り向くと、タオルで前を隠した吉見の軽度肥満体があった。
「やっぱり、入るわ。汗が冷えて気持ち悪くってさ」後ろ手に引き戸を閉めながら、吉見が言う。
私は、首を廻して、さっきまで浸かっていた岩のあたりを見てみる。
そこには、薄明かりに微かに揺れる湯の表があるだけで、もう誰もいなかった。
そして、熱い湯の中を何か冷たいものが、私の膝のあたりに触れ、ゆっくりと通り過ぎていった。
その岩風呂で滑り、岩で頭を強打して亡くなった男性客がいたと聞いた。
京都に帰ってからしばらくして、馴染みのバーのカウンター、吉見からだった。
(完)
吉見はすっかり疲れ切った様子だった。しかし、そもそも禁漁蟹の不確かな噂を聞いてきて、この小旅行に誘ったのは吉見である。
「とにかく、汗を流そう。風呂に行こうぜ」
私は、着替えの浴衣とタオルを探しながら誘ったが、吉見は畳に脚を投げ出して、壁にもたれたまま動かない。
「後にする。エアコンの風のほうがいいや。出かける前にも入ったしさ。明日にするかも」
大浴場はすでに閉まっている時間だったが、岩風呂とかいうのが終夜でやっているはずだ。
シーズンオフだからか、不景気なのか、宿泊客は極端に少ないようで、深夜とはいえ、大きな旅館にしては、ずいぶん静かである。
もしかすると客は私たちだけなのかもしれない。
私は、人気のないロビーの古びたソファで、旧式の自販機のスポーツドリンクを飲み、煙草を一本だけ吸った。
少し時間をくってしまったせいか、岩風呂に行くと、行かないと言っていたはずの吉見が、もう先に湯に浸かっていた。
浴衣を脱ぎ捨て、吉見の隣に体を沈める。

「来てくれてよかったよ。何だか薄気味悪くてさ」小さな声で吉見が言う。
「どうして?暗いからか?」
普通にしゃべったつもりだが、声は他に人気のない風呂場に響き陰に籠もって物凄い。私の声も小さくなる。
「なかなか風情があるじゃないの?旅情豊かというやつだよ。」
岩風呂は、天井まで届く大きなガラス窓があり、その向こうには富山湾の夜景が広がっている。黒い海に灯台の明かりと、遙か遠くに、漁り火だろう、いくつかの小さな揺れる灯りを浮かべている。
そして、夜景を引き立たせるためか、照明をかなり落としてあり、実際に薄暗いのだ。
もしかすると、肝心の岩風呂の岩があまり奇麗でなく、それを隠すためかも知れないが。
「なんでこんなに暗くしてあるのかね。暗いとさ、あの向こう側の岩の陰あたりに、何かいるんじゃないかと思えてきてさ。誰かが来てくれるのが待ち遠しかったよ。俺は気が小さいのかな」
「何かいるなら、明るかろうが、暗かろうが、人が来ようが来まいが、いるものはいるし、いないものならいないだけさ。で、いるというのは、例によって霊なのか?」
私は声に出して笑ってしまった。その笑い声も風呂場の中にこだまするようで、正直、不気味である。
「そうかなぁ。俺みたいに、何かの気配を感じて怖くなるということは、まったくないのかい?」
吉見は、気を悪くしたふうでもなく問い返す。
「ないな。そもそも気配というのは、何かの一部分だけが見えているというだけのことだと思うぜ。音や匂いの場合もあるだろうけどさ」
「そんなんじゃないな、全体だよ。何かの全体を感じるんだ。例えば首の後ろに、ほんのちょっとだけど、何か得体の知れない重みを感じる。まるで何かにすがりつかれているようなね。そういうことがよくあったな」
「オマエさんとこには、鏡というものはないのか?すぐに背中を映してみれば判ることじゃないか」
「そんな怖いこと、できるもんじゃないよ、そういう時は。怖いと言えばね、やっぱり何かの気配を感じてさ、自分の部屋の片隅がどうしても見られないことがあったな。家の外でもね、真っ昼間の何でもない空き地なんかに感じるものがあってね、顔を横に向けて小走りに通り過ぎたものさ」
「デジカメでも、いつも持って歩いたらどうだ?何が写るか面白いぜ。」
「ふふ」と吉見は自嘲気味に笑った。「そんなので写した写真を見る勇気があればね。いいな、迷いがない人は。たぶん死んでも迷うことはないよ。俺のような臆病者がね、生きていても迷い、死んでも迷うんだろうね」
「出るぞ。のぼせちまわぁ」私は立ち上がった。と、同時に出入口の引き戸が開く音がした。
振り向くと、タオルで前を隠した吉見の軽度肥満体があった。
「やっぱり、入るわ。汗が冷えて気持ち悪くってさ」後ろ手に引き戸を閉めながら、吉見が言う。
私は、首を廻して、さっきまで浸かっていた岩のあたりを見てみる。
そこには、薄明かりに微かに揺れる湯の表があるだけで、もう誰もいなかった。
そして、熱い湯の中を何か冷たいものが、私の膝のあたりに触れ、ゆっくりと通り過ぎていった。
その岩風呂で滑り、岩で頭を強打して亡くなった男性客がいたと聞いた。
京都に帰ってからしばらくして、馴染みのバーのカウンター、吉見からだった。
(完)